藤の花が満開。タイサンボクの花も同時期に満開で、季節感が狂うったらありゃしない。
愛さないものは、愛されない。愛を表明しないと、愛してないとみなされる。共感の時代ってそういうことなんでしょ。要するに、愛されてると信じるに足る、確証が欲しいんだとも。
国が違えば国情も違うとはいえ、ECビジネスが活発になったら貨物強盗が増えて警備コストも上昇するとか。あーそっち方面の心配が増えるんですか。。と、だいたい平和な国に住んでると、想像もつかない。
キャッシュレス化が進んで物理的に出回る現金が減ったら、現金輸送にかかるコストも削ることができる。だったら、何としてもコストを削減したい側にとっては是非とも進めたくなるやね。
例えば衣料品や化粧品といった、盗品であっても売りさばきやすいもの。国境を越えて売買できるシステムがあったら、そりゃ悪だくみもはかどりそう。
国境を越えたユーズド商品の売買というマーケットができて、新品で買うという発想からまずはお試しでユーズドを試してその後購買にいたるという、逆転の発想がもしも根付いたら。
新品を手頃な価格で市場に大量放出する巨大資本の有利性がゆっくり毀損されていって、最終的にはジョーブで長持ちする、良質な商品の作り手が評価されるようになるかも。なんてことを夢想したけれど、悪事千里を走るで、悪知恵にはどう考えても負けそ。
Kinkyってどういう意味だっけ?と思いながら見た『キンキー・ブーツ』。一生モノの紳士靴を作る会社が廃業の危機に直面し、のるかそるかでニッチな市場、異性装者の男性向けブーツ制作に乗り出すというお話だった。
女装を好む男性向けのブーツってことで、ハイヒールかつデザインも凝ってる。履くのは男性で、時には舞台で歌って踊るから、デザインだけでなく酷使にも耐える耐久性も要求される。
ニッチだけあって、ユーザーの要求を完全に満たすものを作るのはなかなかに大変そうで、大変だからメーカーあるいはブランドとして認知されれば、商機も充分にありそうだった。
『フル・モンティ』に『カレンダー・ガールズ』。あるいは『パレードへようこそ』。イギリス映画には時々、善男善女あるいは真面目な労働者が、ストリップやヌードといった奇抜なことに挑んで難局を乗り切る。あるいは善男善女やお堅い労働者が、本来手をつなぐことのない相手(LGBTとか)と手を取り合って、一緒に何かをなそうとするテーマの映画が現れる。
『キンキー・ブーツ』も、まぎれもなくその系統。その系統だけあって、ある種のワンパターンさも感じつつ、それでも最後は大団円だから安心して楽しめた。
慣れないハイヒールブーツを履いて、舞台に立つことになった靴メーカーの御曹司(ってほど裕福でもないんだけど)。慣れないもんだから見事にすっころび、目を覆いたくなるような醜態を晒しそうになったその時、颯爽と現れるドラァグ・クイーンのローラのカッコいいこと。
ダンサーを引き連れて踊る、その後に魅せるステージもカッコいいんだけどさ。それよりも、ローラの優しさが滲み出てるシーンで、ここいっちゃん好き。
生き辛さを抱えてドラァグ・クイーンにたどり着いたローラは、人の痛みにも人一倍敏感で、敏感だから、真面目で誠実な人が醜態を晒す前に颯爽と現れてピンチを救う。異性装じゃないときは、モジモジ君なんだけどさ。
『フル・モンティ』に『カレンダー・ガールズ』、『パレードへようこそ』に『キンキー・ブーツ』。イギリス映画にどうしてこの種の映画が現れ続けるのかと考えると、そこにはやっぱり階級の壁があるからあるいはあったからのような気がしてしょうがない。
階級の壁が厳然として立ちはだかる社会だから、パンクファッションのように、時に反体制にアイデンティティを見出す、奇抜かつ奇妙なものがメインカルチャーにも躍り出る。階級の壁をゆりかごに、アンチをためにためこんだ何かが爆発して、壁の向こう、メインカルチャーにまで到達するイメージ。
メインカルチャーにまでたどり着いた、もともとは奇妙で奇抜なもの。メインにまでたどり着いて、もう何かのアンチを貯めこめるほどのパワーも無くしたら、あとはもう“彼らを受け入れそうにないもの”へと支持を広げていき、愛されるしかない。
飴くれる人が、世の中でいっちゃん甘くないからくわばらくわばら。飴もらって牙抜かれて、パワーなくしたあとで大衆を魅了するようなパワーは、出そうとしたって出せるもんじゃない。
お休みなさーい。