単に一から十、あるいは一から百や千まで徹頭徹尾お金の話でしかないんだけど、金くさい話になったらいつでもどこでも首突っ込みにくる勢がいるから、あからさまに金くさいお話ができないようになってるもんなんだけど。
何を言ったかより誰が言ったかで、その意味がまったく変わってくる筆頭は美辞麗句。
例えば分断。分断はよくないから、分断を超えて団結しましょう。ひとつになりましょうと呼びかけてる母集団が、やらずぶったくりのぼったくり集団だったとしたら、ひとつになった途端に同じようにやらずぶったくりにぼったくりを強制される危険性がある。
通過儀礼として、不法行為スレスレあるいは不法行為そのものを強制して、集団への一体感を深めるという伝統が、あるところにはあったもんだけどさ。例えば大学の友愛組織、フラタニティとかさ。今でもあるのかどうか知らんけど。そんな行為は、集団への帰属を明らかに求めてる者同士でしか通用しない。
極端な例えだけど美辞麗句は、数の力で道理を曲げたい・踏みつぶしたい勢に使われると、台無し。
台無しになるとわかってるから、数の力で道理を曲げたい・踏みつぶしたい勢は、数の暴力と言われないために、美辞麗句の持つ効果や効用を最大化できる人材をいつだって求めてんでしょ。鬼や怪物は作りやすく、作りやすいから量産も可能で簡単さ。
ほんとは単に数の力で暴力でしかないんだけど、総意ってことにすれば、総意になるよう仕向けた個人の罪は問われないし、明らかにもならない。その手順が手慣れていたら、何度も繰り返してる常習犯だってことになる。
常習犯が集えば効果もより高くなり、常習犯のなかに混じった右も左もわからない初心者は、すみやかに朱に染まって赤くなる。そうやって違う意見や異なる見解をふみ潰していけば、速やかにみんな一緒になれる。
感情を殺すことに慣れ、作業に慣れた人からは、どうして?という疑問は生まれなくなる。
挙国一致は削除対象で、年齢や人種にバックグラウンドが異なる多様性のある集団が本当に多様だったら、一人くらいはNOと言う。異なる意見が出る方が自然で、出ないのは不自然。NOと言う人が誰もいない多様な集団は、見た目が違うだけの金太郎飴で、結局は同根で同類が、不自然に一ヶ所にかき集められたと考える方が自然さ。
その種の不自然は、データから見るときっともっとあからさまで、不自然をあぶり出したいからデータと向き合うんだと思ってる。
世界中どこに行ってもいっちゃん食いつきのいい話題は金くさい話で、どうオブラートにくるんでも結局は金くさい話にしかならないんだったら、世界に出る意味なんてないじゃん。
と、引きこもってお金のことしか考えなかった人は、お金そのものをコレクションするという伝統芸のアップデートを考えてたのかも。
奥が深くて極め甲斐があるから伝統芸に目を向けたところで、伝統芸を嗜む行為だってお金そのもののコレクション化につなげようとするのが、金くさい話が好物で大好き勢。数が増えたら、それまで意味があってそうなっていた序列も台無しで、世界中の人から見てわかりやすくなりましょうとか言われそうで、わかりやすくなった伝統芸からは昔日の面影なんて速やかに奪われる。
奥が深くもなく、極め甲斐もない。昔日の面影が消えたら、何が残るのさ。ローカルティを失ったローカルの、どこに魅力を感じればいいのかわからないのと一緒で、どこも一緒になったら台無しもいいとこ。