クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

ヒト型に託して流す

風邪を引いた時に食べる桃缶は、糖度が高いから栄養食であったと同時に、魔を払うあるいは邪気を退けるという、仙果としての桃の由来にあやかり健康を願ったものだったのかも。

 

いちフランス人の言うこと(つまり信憑性に欠ける)には、魔女狩りがあったせいでフランスではスピリチュアルな言い伝えあるいは伝承はあまり残ってない、あるいは伝わってないんだとか。季節ごとに行われる行事に植物や食べ物が登場し、登場する植物や食べ物にはそれぞれもっともらしい理由が添えられるのも、思えばスピリチュアル。

 

魔女狩りのように極端な排斥が行われると、この種のスピリチュアルなものやことは、肩身が狭くなって生き残りにくくなる。

 

桃の節句だった昨日は、女の子の健やかな成長を願ってか、お菓子屋さんはどこも繁盛してた。

 

白に桃色、草緑のひし餅は、梅に桃、あるいはこれから咲く桜を表してるようで見るからに春っぽい。ごく局地的な現象かもしれないけれど、桜餅にうぐいす餅がよく売れてたようで、ひし餅の三色を連想する。

 

桃の季節なのに、梅にうぐいすならちょっと時期外れ。桃色に草緑色で春を連想させるなら、桜餅にあわせるのは草餅の方が好み。草餅の方が、そもそも桃の節句の由来としては正統派だから。

 

今では年中手に入る草餅だと季節感や特別感はうすいから、うぐいす餅を合わせたくなる気持ちはわかるんだけどさ。

 

女の子の健やかな成長を願う日に水を差す人は、すべての女の子の健やかな成長は願わない人。健やかに育った女の子からは、バカにされるかそっぽむかれがちで、健やかに育たなかった女の子とばかりご縁があるような人は、健やかに育たなかった女の子こそを必要とする。

 

真っ直ぐに明るい未来をめざせる女の子を最短コースに乗せるのは、健やかに育たなかった女の子を養分に肥え太っていく輩の富栄養化を止めるため。栄養分がなくなったら、誰かを犠牲に肥え太る系の輩も育ちようがない。

                                                                                                       

外聞の悪い出来事を、きれいな美辞麗句に包んで美談仕立てにする行為と、災いや穢れをヒト型の人形に込めて水に流す行為は、なんだか似てる。

 

どちらも、そのまま触ると害になる。

 

たまたま観光で訪れた神社仏閣で、血天井という禍々しいものを見たことがある。戦国時代の名残で、無念の中に死んでいった人も含め、夥しい数の戦死者の血がこびりついた天井を遺構として保存し供養してた。あれも、そのまま触ると害を及ぼす系のもので、うっかり処分もできなかったから神社仏閣に持ち込まれたと考えると納得する。

 

そのまま触ると害になる系のものは、神様仏様の近くに置いて清めてもらうのがいちばん。神様仏様の近くに置いてもらいたくて、百害を繰り返すような人やものは、なおさら人のそばには置いておけないやね。

 

今となっては、なんでそんなもの取っておいたのさ???と思うようなものは、触ると害をなすから怖くて触れなかったもの。触ると害をなすから怖くて触れないようなものは、神輿として担ぎ上げて、ありがたいもののように扱うのがいちばんで、うっかり触るとおっかない。