クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

事実の読み取り方

上でもなく下でもなく。ただ目の前にある道だけを見るのが現実主義だとしたら、そりゃ上も下も顧みずに目の前の道をまっすぐに進めば、成功へもより近く確実になる。

 

成功への最短ルートを妨げるのは、上と下。

 

媚やへつらいあるいは悪口や偏見に惑わされると、事実を見誤る。事実ではない事実に基づいてことを進めれば、どこかでつまずく。上と下。媚やへつらい、あるいは悪口や偏見に惑わされて失敗した人を間近にすれば、失敗したくない人は事実かどうかにより重きを置くようになる。

 

事実を重視するのは、事実ではない事実に振り回されず、つまずかないため。つまずけ、振り回されろとばかりに、事実ではない事実を巧妙にまぶした事案は、目にする機会が増えるとうんざり。

 

淡々と、ただ事実を記したものを情報として摂取したい気分の時に、この情報居るのか???と疑問に思う一文あるいは項目に出会うと、損した気分になる。真面目に取り合うと馬鹿をみる類のものかと、すべての情報がうさん臭く見えて、真面目に取り合う気が瞬時に失せるから。

 

本来はプラスイメージのあるモノや人に、マイナスのイメージを重ねると、印象操作。

 

写経は、そのまま書写することに意味がある作業。写経の途中で、個人的な楽しみとしてちょっとした改変を加えるのは、退屈な作業を楽しくする知恵ではあるけど、そうなるともう写経とは言えない。教典を知ってる人からすれば、そんなものは写経とは言えないと怒られても当然。

 

写経は、原典となる教典が広く知られているから、明らかな間違いは見つけやすい。でも、広く知られていない分野で写経のような作業、そのまま書き写すことが求められている作業で、改変を加えまくってその誤りを指摘できる人が少数だと、明らかな間違いでも指摘されないまま。

 

誤ったものが教典のように伝わってしまうことになり、改変を加えまくった人であっても、教典のようなものの編纂に加わった人として名前が残る。あぁ印象操作ったら。

 

一見関係なさそうな事実が、あそことここに。

 

その事実をどうつなげて読むかのデータ読み取り力の鍛え方。最新の教材を追い掛けなくても、案外古式ゆかしい方法で鍛えることもできるかも。意外な組み合わせは、案外同根かもと言われて納得したけど、何と何が案外同根なのかは内緒。自分だけが知ってればいいから。

 

最新のものは、より改変が加えやすい。だったら、最新から遠いものになればなるほど、改変のしようもない。