クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

見慣れない単語

海外ニュースで見掛けた、見慣れない単語。Googleさんに聞いてみたら最上位に表示されるのは、昨年度公開されたパニック・アクション映画だなんて、どうかしてる。進化したオオアリクイ系はワールドワイドに活躍中で、大暴れ。

 

不謹慎というそしりもヘーキなのは、不謹慎や不道徳と思われがちな業界とはまた別にある。いつもは大音量の音楽で、寄ってけと真面目に勉強しようとする学生予備校生を誘惑していた、不謹慎筆頭と思われがちなパチンコ屋さんだって、日本国中がいまだかつてないほど静まり返った日には沈黙してた。

 

日本国中が喪に服してた日であっても元気に営業中だったのは、教育現場。それも正規教育とはまた別の、教育産業でのこと。1月だから、しょうがなかったと言えばそうなんだけど。

 

試験が延期にならなかったら、試験勉強してる場合じゃないでしょという声に、耳を貸してもしょうがない。不謹慎という声を突っぱねることができたのも産業だったからで、産業ではないと自認する正規の教育現場だったらどうだったのか。今となっては冬休み中の出来事でよかったねと思うしかない。

 

もしも平時だったら、きっと揉めてた。産業の顔と産業ではないという顔と、器用に使い分ける矛盾を衝いてくるのは、その手の伝統。

 

どういうシステムがもっとも民主的なのか。そこに何を入れるかよりも、入れ物をどうするかでまず揉めて、揉めるから順次改変を加えつつ、そのたびに生徒を巻き込んだ壮大な社会実験を繰り替えしつつ、どうにかこうにかしてきた。という悶着は、教育にかぎらずきっとどの分野でもあったに違いない。

 

母数となる生徒あるいはサンプルの数が多いと、悠長にいじくり回して遊んでられる。

 

多少の失敗が許されたのも、母数が多いから。母数が少なくなると失敗も許されなくなり、許されないものはあってはならないから、失敗は隠される。

 

不謹慎というそしりもヘーキな産業の最先端は、radicalな思想に染まりがち。Radicalだから社会実験もヘーキだけど、radicalな思想に染まり過ぎるとradicalではないその他大勢の人の目から見たらおかし過ぎて、あるいは愚かし過ぎて浮いてしまう。

 

まじでそれやってんの???と、ドン引きされるのがオチ。

 

ゲーミフィケーションゲーム理論は、ドン引きされそうなことを広く薄く浸透させるのに、お役立ち。お役立ちだけど、そもそもがradicalで常識をひっくり返すような思想はどうやり方を変えたところで、薄くはなっても広くにはならない。

 

警戒していたほどの雪にはならず。不要不急の外出を避けるほどではなく、不要不急の外出を満喫した。