昨日はキツネにシカで、今日はリス。
都市と自然が近いと、野生動物との遭遇も頻繁になる。頻繁であっても、珍しいものは珍しい。愛らしい一瞬を逃すまいと慌ててカメラを向けても、お尻や尻尾にフォーカスした写真になりがち、シャッターチャンスは逃しがち。
お尻や尻尾。後姿しか捉えられなかった写真は、頭は逃してシャッターチャンスを逃したという事実を表している。
一瞬、あるいは瞬間を切り取った事実から出来たものが、写真。
あら、かわいい。あら、きれい。あら、こわい。その一瞬を切り取った写真には、言葉はいらない。見ればわかるから。
言葉が必要となるのは、瞬間を切り取るカメラのような文明の利器を取り上げられた時。
あら、きれい。これは一体どこで?と思う、例えば花いっぱいの景色の素晴らしさを写真無しで言葉だけで伝えようとすると、四苦八苦。メモ代わりにカメラを使うようになると、きっと文章力は落ちる。
思わずシャッターを押したくなるような、事実がまずあった。事実を伝えようにも拙い言葉では、読む人の心に刺さらない。
ちょっとその後どうなるのー???という、サスペンスフルな景色を言葉に置き換えて伝えようとした時。文章が短いほど事実により近く、長くなるほど虚構に近くなる。波高しだと波の高さがわからないから、高波10メートルのところを50メートルにしとこ。みたいに。
だから、俳句や短歌のように文字制限がある短いものは、事実ベースでベストショットに近く、フィクションでもノンフィクションでも長尺なものは虚構ベースで、映像作品により近くなる。
瞬間を切り取る作業に慣れてさえいれば、瞬間を切り取るツールがカメラから別のものに置き換わっても、まずはシャッターを切りたくなるような感情駆動という点ではきっと一緒。
思わずシャッターを切りたくなるような感情さえあれば、シャッターを切りたくなった事実を写真ではなく言葉に置き換える作業も、訓練次第ではできるようになるのかも。
ベストショットである必要はない。ただ数さえ揃えばいいような場合に、5文字では足りないなら7文字に。7文字では多過ぎるなら5文字に変換する術に長けていて、コミカルあるいはサスペンスフル、またはほっこりする癒し系といった場面に応じた語彙や表現のデータベースでもあれば、誰でもお手軽短文生成ジェネレーターにだって、なれるのかも。
なれても嬉しいかどうかは別問題として。
誰でもお手軽短文生成ジェネレーター量産型に、単騎で挑むと消耗するだけで、誰もがなれるわけではなくお手軽でもなく短文でもない側も量産体制で臨むと軽量級が吹っ飛んで、重量級が残ることになるのかも。かもかも。
”メタボ栗鼠 何をするにも どっこいしょ”で、軽力級はきっと逃げ足も速い。