クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

黄色か、赤か。

北海道の秋は、黄色か赤か。

 

日当たりのいい樹ほど、赤く染まってる。人の手で、人為的に均等に日が当たるように配置された場所では、ほどよく赤く色づいた樹も見掛けるものだから、北海道の秋もやっぱり赤いものだと錯覚しがち。

 

ところで春になればアレルギー源となるほど北海道ではよく見掛けるシラカバは、秋になると黄色く色づく。シラカバの仲間も黄色くなるから、原初の自然の姿を留めた場所ほど黄色が勝り、赤く色づく樹はたまにしか見掛けない。

 

全体に黄色っぽく、赤ポチポチ。

 

植生が違うから、山全体が赤く染まるような紅葉は、北海道固有のものじゃない。ような気がするけど、古老の意見は聞いてないし参考にもしてないので真偽は知らね。300年や400年、あるいは千年続いた土地で昔っから伝わってる話なら参考にもなるんだけどさ。150年ぽっちの歴史しか持たないと、容易にひっくり返される。

 

秋イコールもみじで赤いのは、古来から観賞用にもみじが植えられてきたような場所で、古都とか古都とか古都。古都で生まれた秋の景色は言ってみれば模範解答だから、模範解答を真似た景色が、人の手で改良し放題、人為的にいじり放題の各地に根付き、根付いてオリジナルである原初の景色を脅かすことになるのかも。

 

原初から人の手が入っていた、人為的な改良もしくは改悪が加えられてきた地では、新たに人為的な改良もしくは改悪を加えることにも抵抗が薄くなる。

 

テッテケテーと走り回る、リスを餌付けでもしようとしたものか。あら、こんなところに大量のヒマワリの種と、現在進行形の人為の痕跡は、原初から人の手が入っていたような場所で顕著。

 

民間信仰は、チートと背中合わせ。

 

効果倍増どころか、一度で千や万の効果を喧伝して拡散すると、チートに肯定的な善男善女が勝手に集ってくる。チートを許さないのは正統派で、正しい形で受け継いでいくものを既に持ってる方。

 

持ってない方は正しく受け継いでいくようなものは何も持ってないから、持ってる方に寄っていく。集ったものの、正しく受け継いでいくものは何も持たず、すぐバラバラになるから求心力をキープする格好の口実として、正統が頼りにされる。

 

頼りにするけれど、正統がすでにボロボロだとあっちもこっちも簡単に新しいものにすげ替え可能で、足蹴にするのも簡単。足蹴もすげ替えも許容したくなかったら、最初から正統とは相容れないものは、取り込まないに限る。

 

黄色でも赤でも、きれいなものはただきれい。

 

きれいなものを見てもきれいとは感じられず、美味しいものを食べても美味しいとも感じられなくなると、対象をメッタ切りすることにも躊躇がなくなる。躊躇なくメッタ切りするのは道具として使い倒すつもりだからで、そこに愛情なんかあるわけない。

 

愛の鞭なんて、嘘っぱち。

 

鞭打ったところで、良心が痛むはずもない、むしろ鞭打つことそのものが喜びに繋がる相手を選んで鞭打ってる。そういう景色は薄ら寒くてウザいだけだから、とどまることなく流れて行く。

 

きれいな景色や知識の集積といったものは、とどまることなく流れて行ってしまっては困るもの。流されても無問題なのは、怖くてウザくて暗い、情念とか怨念さ。