師も走るという師走もこれ以上ないほど押し迫った大晦日、栗きんとんに失敗してしまったので、デパートへと急ぐ。
大晦日のデパート。あぁ大晦日だよ。。という特別な気分が味わえるかとちょっとワクワクしたけれど、店内もデパートのある中心部もさほど人も多くなく、大変に歩きやすかった。
バブル期の、通勤ラッシュを思わせる押し合いへしあいの混雑を彷彿とさせるよすがもなし。空港、あるいは空港に向かう交通機関なら、もしかするとあぁ大晦日。。という雰囲気に満ち満ちてたのかも。
お正月を控えたせいか除雪も行き届き、なんなら自転車でも問題ないくらいの歩きやすさで、大晦日というよりも、冬なのにまぁまぁ天気に恵まれた、普通の休日っぽい。
今年は金柑の蜜煮にも初めて挑戦。栗きんとんには失敗したけれど、こっちは初めてにしてはまぁまぁの出来で、満足。
盆や正月、あるいはクリスマスといった特別な日に利用者が大きく減るのなら、そのサービスのメインユーザーは、特別な日にはそれなりに忙しくなる、日常を生きる人たちってことになるんじゃないすかね。
日常を生きる人から日常を奪い、非日常を生きろと押し付けたところで、目一杯抵抗されるのがオチ。非日常を生きる人にとってはそれが日常茶飯事のことであればなおさら非道だけが際立ち、日常を生きる人との乖離が激しくなるだけさ。
虚構でしか描きえないものそれは、異形とのめぐり逢い。
という仮説を、このたびうん十年ぶりに完結した物語に触発されて思いついた。もうひとつ仮説を思いついているけれど、それはこれから検証する予定。中断されたから追い掛けるのもやめた、その年月があまりにも長いので、検証にも相応の時間がかかる。ポチッと電子書籍というわけにもいかないのでなおさら。
蛇王とか、劇場型犯罪を敢行する愉快犯とか、ゲドが戦う影とか。その種の異形のものとの邂逅は、虚構に託して語るしかない。ただ気に食わないという理由だけで、虚構に託して実在する人やモノを断罪するのは、単に下品な憂さ晴らしで現実の写し鏡で物語でもなんでもないわな。
物語でもなんでもないから、フェイクニュースという便利な呼び名がぴったりくる。厳密なフェイクニュースの定義とは、多分大いに違ってるけどさ。
どうして俺・私がこんな目に遭うのか。という怒りや憤りに導かれ、呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーンと目の前に現れた、異形の声にあなたは耳を傾けますか、どうしますか。
ゲド戦記あたりをサクッと動画で見てみようと思ったけれど、こちらもポチっとはいかず。不便ですこと。
怒りや憤りに導かれ、呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーンと徘徊する影を封じ込めるため、大金を投じてシステムをすっかり変えてしまったあとで、憤怒の河を渡る最後の一人になるなかれ。その河は、最後の一人が渡り切ったあとに、やがては枯れてしまうものだから。
物語を綴るために必要だからと影をわざわざ呼び出すのなら、そもそもなんのための物語なんすかね。本末転倒に表裏一体に。もう少し四文字熟語の語彙を増やしたいと切実に思った、2017年の年の末。健やかに過ごすというありようの尊さが、身に染みた一年でもございました。
健やかに過ごしたいと願いつつ、こういうのは止められないのよねぇ。
アラビア遊牧民には、移動そのものをよしとする思想があるそうで、活躍する場は海と砂漠で異なるけれど、稼ぐことしか考えなかったから滅ぼされたカルタゴの民と、根底となる思想は一緒なのかも。
お休みなさーい。