クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

あれもお茶会それもお茶会

嵐に流されて見知らぬ島に流れ着いたロビンソン・クルーソー的人物。

 

島にはオバケのバケラッタにミイラ、石を積み重ねた墓標らしきもの。夜になるとオバケかぼちゃがケタケタ笑う、見知らぬ島の植生をトレリス(赤紫)、ブルーチーズ、ミニグリーントマト、マッシュルームで石コロを表現してみたハロウィン特製プレート。次に作るなら、骸骨追加。

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と、“ハロウィン”をテーマに食べ物でチマチマ遊んでみた。

 

スケールその他。諸々異なるところはあるけれど、例えば“お花見”や“紅葉”あるいは“中秋の名月”をテーマに茶道で茶会を開くときには、テーマに合わせて道具やお菓子を揃え、揃えた道具をやっぱりテーマに合わせた装いで集った面子で愛でる。らしい。

 

テーマを決め、決めたテーマで世界観を表現し、テーマを共有する面子で愛でるというのが茶道の茶会なら、“ハロウィン”がテーマでも何とかなりそうだと勝手に思った。

 

幽霊画を掛け、飾る花はちょっと枯れ気味あるいはハロウィンカラーで黄色やオレンジに黒でしつらえる。ハロウィンにちなんだお菓子ならすでにいくつもあるから、最も揃えるのが難しそうなのはお茶碗。

 

そこさえクリアすれば、ハロウィンらしく仮装で出席してもよしとなると、ハロウィンと和が融合して茶会のハードルがグッと下がる。

 

その反面、持ってる道具や衣装の高価さを競いたい向きにはきっと不評で、だから“世界観を共有できる者だけのお遊び”として、新しい試みはやるとしてもひっそりこっそり行われているのかも。かもかも。

 

世界観を表現するには道具or小道具が必須で、だから芸を伝えるお家には例えば千家十職のような職人集団が控えていたんだと思えば納得する。さらに言えば、伝えたい家の芸があるとき、芸を支える何らかの職人集団が必要で、職人が揃えられない“家の芸”は職人が揃っていたときのようには伝えられなくなる。ということでもあるのかも。

 

芸を伝えるお家は断絶することなく続いてる。

 

けれど、彼らが披露する芸は昔のようではなく変わって(変えられて)いるのなら、芸を支える職人が変わったか欠けたという見方もできる。

 

例えば“クリスマス”や“ニューイヤー”といった大きなイベントで即座に連想する映像作品があるけれど。

 

ああいうものもテーマに合わせて世界観を表現する一種の芸で言ってみれば壮大なお茶会で、芸を伝えるお家(コンテンツファームやメーカー)が変わるかお家(コンテンツファームやメーカー)を支える職人集団が変わると芸が断絶し、馴染んだ芸風(=お茶会の作法)が変わっていくのかも。

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北大のイチョウ並木は、今年もきれいだった。

クルクル巻いてみる

カッテージチーズ(裏ごしタイプ)に砂糖を混ぜて牛乳を混ぜて。溶き卵にサラダ油(溶かしバターだとなおよし)と香りづけにバニラエッセンスを加え、これで本当にケーキができるの?と思うようなシャバシャバと水っぽい生地も、小麦粉を加えるとしっかりした生地ができあがる。

 

できるだけ長方形めざして生地をのばし、のばした生地にフィリング、りんごの甘煮にクルミにシナモンと、カステラを作る時くらいしか活躍しないザラメ糖にカットバターをトッピングして太巻きのようにクルクル巻く。

 

巻いたロール生地を等分にカットして、ケーキ型の中で固めて焼けばできあがり。焼き上がったケーキにグラサージュめざして砂糖のシロップを塗れば、完成。

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生地にもフィリングにもシロップにも、砂糖を使っているからとにかく甘い。食べる時にはシロップで手がベタベタする。

 

こういうお菓子のようなパンが、昔売られていたなぁと思い出しながら、思い浮かべたのは異国のお菓子。ケーキ生地ではなくもっとサクサクとしたパイ生地だったけど、バクラヴァというお菓子も確かこんな風だった。

 

バクラヴァなんてきっと、見たことも聞いたこともない人がほとんどだった昔々に、歴史あるお菓子にヒントを得てお菓子のようなパンが生まれたのかもと思うとちょっと楽しい。

 

カッテージチーズをフェタというチーズに変えてもできそうで、フィリングのトッピングに使うカットバターもチーズに変えればますます異国生まれのお菓子っぽい。

 

お菓子を作りたかったからフィリングは甘くした。フィリングを甘くないものに変えればケークサレのようなスナックケーキにもなりそうで、とはいえ残ったカッテージチーズを使い切る際には冷蔵庫やその他のストックと相談で、ナッツ入りはちみつにさつまいもで作ってもいいかも。

 

そもそものレシピではフィリングはアーモンドにレーズンで、ナッツ類にレーズンそれにカッテージチーズも常備している家庭なら、思い立つだけですぐにできそうだった。

 

思い立ったらすぐにできるものだから、きっとフィリングはなんでもいい。

 

ふつうの人。たまにしか出現しないような人ではなくいつでもその辺で見つかるふつうの人が、たまにではなくしょっちゅう食べているものが一番美味しい。

 

というのが持論で、どこかの国のどこかの家庭でしょっちゅう作られているものは、別の国の別の家庭でも作りやすい、あるいは口にしやすいよう形を変えれば美味しいと喜んでもらえるはず。

 

クルクルと巻いて作るケーキを作りながら、思い出したのは昔よく見かけて食べた、甘くて美味しいケーキのような菓子パン。ケーキ屋さんのケーキがリッチになって洗練されていくとともに、パン屋さんが作るケーキのような甘い菓子パンは、ひとつまたひとつと消えていったのはきっと気のせいじゃない。

 

甘いお菓子をしょっちゅう食べても無問題なのは、朝から晩まで走り回る運動量の多いライフスタイルだからで、ひとところに留まる時間が増えて運動量が落ちると、欲しいものも変わっていく。

 

バタークリームで作った花飾りに、粒々とした銀色のアラザンに着色したドレンチェリー。ひと切れ食べ終える頃には甘さで目がチカチカ、頭がクラクラする。

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欲しいもの、あるいは必要なものにぴったりフィットしてるとはとても言えないこのバターケーキも、つい買ってしまうし食べてしまうのは買っているのも食べているのも食べ物じゃないから。

 

ケーキは別腹で、お腹いっぱいでも入ることはあるけれど。

 

そもそも買っているのも食べているのも食べ物ではなく思い出とか懐かしさとかそういうものだったら、受け入れられる量には限りがある。

そうだ、京都行こう

不幸な局面で駆り出されて活躍する事業体や企業が“顧客の創造”をめざしたとき、不幸が増える。

 

逆に、ハッピーな局面で駆り出されて活躍する事業体や企業が“顧客の創造”をめざすと、ハッピーが増える。

 

禍福はあざなえる縄のごとしはつまりそういうことで、山が高過ぎると谷は深くなる。高い山も深い谷もフツーは安全とはいえない。普通は安全ではない場所が安全になるとセーフティーゾーンが増えて、危険と隣り合わせだから高収入みたいな職も減っていく。

 

今年の夏は京都に行ってきた。真夏の京都。

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夏でも(比較的)涼しい札幌からすると、やっぱり別天地。炎天下に出歩くのは熱球に包まれながら移動するようなもので、大変なのはじっとりムッとする湿気。

 

ふた昔よりもう少し以前になると、夏の京都は超有名観光地であっても観光客もまばらで、閑散としていた。夏でも観光客がいっぱいだと、夏で暑いなかまぁご苦労さまという気分にもなるけれど、6~8月は世界的には旅行しやすい夏休みでバカンスシーズン。海外からの観光客が増えると、必然的に夏場もそれなりに混むことになる。

 

窓の外には一面の苔むした緑。


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空調の室外機(?)から滴る雫も風流で、空調の効いた部屋の中からだから、視覚的にも涼しさが増した。

 

生い茂った緑の木々が陰を作り、苔むした日本庭園のなかを歩くと真夏でもちょっと涼しく感じる。熱せられたアスファルトの上を歩くよりも実際に涼しいはずで、風を通す道を作り、木々で陰を作るのも苔で地面を覆うのも、“都市を冷やすための工夫”。


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苔むした地面の上を多数が歩くと苔も生えなくなるから、垂直にして苔の壁にしてみた。というのも、庭ではない現代の建物を冷やす工夫で自然エネルギーの利活用の一種。

 

日本人=ロコの考える京都らしさと外国人観光客の考える京都らしさがかけ離れて乖離がひどくなると、街はちぐはぐで汚らしくなっていく。

 

そして日本らしくて京都らしい、自然エネルギーの利活用という方向性でロコとグローバルが一致した街は、見違えるようにキレイになっていくのかも。

 

自然エネルギーの利活用法にかぎらず、対立しがち(あるいは張り合いがち)な両者が何かの方向性で一致すると、ロコもグローバルも満足する、長く安心して使える内かが生まれやすくなる。

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(ユリカモメではなく鷺っぽい鳥を何度か見掛け、何度も見掛けるのは変だと思った。)

 

旅行には不向きな夏に、わざわざ京都に出掛けたのは用事があったから。日本生まれのロコならありがちな夏の用事、先祖供養も、日本以外で生まれたロコが増えるほどに夏の定番とは言えなくなって、また別の過ごし方が定番となってもおかしくないし、不思議じゃない。

捨てるとこなどなし

筋子ひと腹190g、200gを切るくらいの素材から取れたイクラのしょうゆ漬けが、小さめのタッパー(10㎝×10㎝くらい?)ひとつ分。

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(先日もそうだったけど、なぜか写真が縦。横にしたいのに。。)

お風呂のお湯くらいのぬるめのお湯で薄皮を剥いでほぐし、あとは目の細かいザル状のもので取り切れなかった薄皮を丁寧に取り除き、しょうゆダレに漬け込んで冷凍庫で寝かす。

 

使いたい分だけ解凍しながら使っても、よし。使い切るつもりで一度にすべてを解凍しても、よし。

 

素材が安く手に入れば入るほど、原価率は下がってお得。特に素材は安くなく、コストパフォーマンスでは普及品に敵わないとしても、自作してみたいという欲求は満たされていい時間潰しにもなって、素材が比較的安く手に入る季節限定の手仕事と思えばなんてことはない。

 

イクラを使ってまず作ってみたかったのは、はらこ飯。鮭を煮付けた出汁でご飯を炊き、鮭とイクラをトッピングしたもの。

 

そう分解してしまえばザ・シンプルな一品ながら、身だけでなく卵も一緒に食すことで“余すことなく頂く”にも一歩近づいて、切り身ではなく鮭が丸ごと一尾手に入る地域ならではの郷土めし的な雰囲気も増す。

 

ついでに、お風呂くらいのぬるめのお湯につけると薄皮がきれいに剥がれるというやり方は、温泉が出る土地で鮭が採れる土地で好まれていた、という信憑性に乏しい尾ひれだって付け足したくなる。

 

お湯につけて水につけて。ザル状のものでゴシゴシ扱っても、程度問題だけどイクラは意外と丈夫で、しょうゆダレに漬け込むとイクラのしょうゆ漬けが立派にできあがる。

 

はらこ飯に添えたのはじゃがいもとしめじのタラコ煮で、煮物の煮汁にタラコを加えるという、こちらも魚卵を使ったもの。

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(あら、やっぱり写真は縦。変なの。)

200gを切るほどの筋子から、小さめのタッパー(10㎝×10㎝くらい?)ひとつ分のイクラは多いのか少ないのか。

 

これだけの数の魚卵、生存率が10%や20%でも上がると、成魚の図体がデカくなればなるほど生態系もとんでもなく乱れることになるんじゃないだろうか。

 

数が増えたら海の中の温度は上がる。

 

海水温が上がるから魚群も移動して、見慣れた魚はもっと北へ行き、見慣れない南からの魚が増えてきているのかも。かもかも。

 

筋子がスーパーでも手に入るような季節も短いけれど、鮭にはそういえば白子というものもあり、おぼろげな記憶による食感から想像するにあれは、和風に食べるよりも洋風に食べる方が応用範囲も広そうな気がした。

 

目にする機会が少ないだけに、試してみたいと思ったときに出逢わないと、試してみることもできないんだけどさ。

 

試してみたから、捨てるところなどなく余すことなく使えると知ってる人は知ってるんだろう。

 

天高く馬肥ゆる秋に、やせ細っているものは何だろう?とふと思った。

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(風景写真は横仕様。なぞ???)

甘いぶどう

いちごにマーマレードラズベリー・ブルーベリーにアンズ、いちじくにルバーブと美味しいだけでなく色とりどり。

 

見てるだけで楽しくなるようなジャムが増えて、作るよりも買う方が多くなったけれど、季節になると作りたくなるのはぶどうジャム。素材がお手頃だと、作りたいから作ろうまであっという間。

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ぶどうを実と皮に分け、種を取る。面倒くさいと思うのは当たり前で、そもそも面倒なことをやろうとしている。

 

皮からは美しいぶどうの色が、種からはジャムのとろみ(=ペクチン)が出るからわざわざ分けて、お茶パックに詰めておく。砂糖(ぶどうの正味量に対して70%くらい?)をまぶしたぶどうの実からぶどうジュースがたっぷりしみだしたら(1時間は置く)コトコト煮詰めていく。

 

ぶどうの実の形が崩れ、液体状になった頃が火の止め頃で、仕上げにレモン汁を大さじ1杯くらい加えて出来上がり。

 

加える砂糖の量、煮詰める時間によって甘さやとろみが変わってくるから、果物の風味を残しつつジャムとしてちょうどいい固さに仕上げようと思うとやっぱり経験がものを言うんだろう。

 

たっぷり作ったジャムで作りたいのは、リンツァートルテもどき。

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クッキーのような柔らかい生地でタルト生地を焼いて、ぶどうジャムとクランブル(小麦粉とバターと砂糖から作ったそぼろみたいなもの)をトッピングしてみる。ジャムタルトなので相当甘い。

 

相当甘いので滅多に作らないリンツァートルテもどきを頬張りながら、思い出すのは村上開進堂(京都の方)のロシアケーキという名のソフトクッキー。赤・黄色・緑にチョコ、そしてぶどうジャムとトッピングがカラフルで、素朴だけど素朴だから美味しかった。

 

ロシアケーキにクッキーの詰め合わせにみかんゼリーと、置いているお菓子の数もそう多くなく、ダックワーズが追加されたのは平成の頃か。

 

お店の佇まいも、気を付けないと見落としてしまいそうになるほどお菓子屋さんとしては素っ気なかったけれど、指名買いする固定客に支えられたお店はそんなものかも。文明開化の名残りをまとった西洋菓子の老舗は、和菓子の老舗とはずいぶん趣も異なって、異なる趣はそのままルーツの違いを表しているんだろう。

 

ロシアケーキにロシアチョコレート、バームクーヘンにフランクフルタークランツなどなど。フランス由来のお菓子はもちろん、ロシア由来のお菓子にドイツ由来のお菓子。明治になってからやってきて根付いた西洋菓子は、進化が著しいからつい忘れそうになるけれど、最初期に“西洋菓子”というフロンティアを開拓したお菓子屋さんはそっちの方。

 

お菓子に限らず何かを食べる時には思い出も一緒に食べている。

 

はやりすたりに関係なく、最先端から見たときにどんくさいと思われるようなものがどんくさい見た目のまま残されるのは、“思い出と一緒に食べている”あるいは“思い出があるから手に取る”という人の数は案外多いんだと知ってるからかも。

 

味覚が保守だと思うのはニューフェイスが残りにくいからで、ニューフェイスが残りにくいのはニューフェイスと共にする思い出はいつも少なくなりがちだから。

 

西洋菓子に西洋料理。そもそも根付きにくい歴史の浅いものがしっかり根付いて進化したのは、広告とか宣伝とか。最初期の物量が圧倒的だったという名残に思えてくる。

 

特定エリアでしか手に入らない食べ物の思いではルーツにつながって、ルーツにつながるからレシピも残りやすい。


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(皮の色が美しい種無しぶどう。煮詰めるといちごジャムのような色になった。ぶどうらしいきれいな紫色に発色するのは、種もあるキャンベルの方だった。)

逆にどこにいても手に入りやすい、特にルーツを持たない食べ物のレシピは残りにくく、作る人がいなくなると食べ物そのものが消滅してしまい、看板を付け替えて別のどこかでニューフェイスとして誕生しているのかも。かもかも。

単数と複数

スエズ運河が値上げされたら運河の利用者は困るだろう。

 

その場合、値上げに踏み切った当事者は誰から見ても明らかだけど、値上げに踏み切るまでの確たる事情は限られた者にしかわからない。

 

食料やエネルギー、あるいは基幹産業の原材料などなど。値上げに踏み切った当事者を食わせて存続させていくための何かが急騰して高騰し、安くて便利だから安定していた安定財源まで不安定化しつつある。

 

みたいな事情があった時。値上げを決断したのは当事者でも、当事者を取り巻く事情や環境がなかったら当事者の決断は出てこない。あるいは、また別のものであった可能性がある。

 

簡単なのは単数で、複雑なのは複数。

 

決断したのは単独でも利害関係者が複数だったら、事情は複雑。利害関係者が複数で数が多く、数に勝る利害関係者が一斉に代替を求めると安定は崩れて不安定化しがち。

 

水利権に通行権。

 

手中にすれば安定したお財布になりそうだけど、安定したお財布になるためには管理運営者よりも数に勝る利害関係者がいないとそもそも安定したお財布にもならない。

 

巌流島に壇ノ浦。名前は知っていてもどこにあるのか地理には疎い。にぎたつに船乗りせむと詠まれた“にぎたつ“も、そもそもどこにあったのかよくわかってないけれど、日本史上に名を残した戦いの場は、古くなればなるほど西の方。


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西から東で東から北が、領土あるいは国土拡張ルートであったことは間違いない。

 

大陸により近い西の方には九州警固のために防人という職種があって、相当古くからある職だと知っているのは万葉集にも詠まれているから。歌を詠む暇はあるけど、地域には何らかの緊張があるから防人が置かれた。

 

北海道だって大陸に近いけれど、北海道に同種の職種が置かれるのは近代以降で、要するに西と北ではそれだけタイムラグがある。

 

古来より人の往来があって交易が盛んで利害や利得があったから争いも古くから起こるもので、利害も利得もなければそもそも争いなど生まれようがない。利害や利得の規模が大きくなるほどに争いも大きくなって、利害関係者が増えていく。

 

過去よりももっと遠く、いにしえの国家間の争いを忠実に描き出そうとすると、現代の国家間の協調がないとできない。

 

勝者に敗者、勝ち負けに関係なく戦場や争いと関係することになったもの。最低でも三者が揃わないと三者三様の視点は持てず盛り込めず、三者三様以上の客観的な視点を欠いたまま描かれたものは、“当時を忠実に描いた”ものにはなりにくい。

 

人の往来があって交易があって利権があったから争いが起こったような土地は、争いと協調の歴史を繰り返しているはず。そして争いの気配は濃厚なのに、協調の気配がなかったら焼け野原。というシンプルかつ簡単な結論になる。

 

争いも協調も、複数が揃わないとできないもの。複数の気配が感じられないのなら利害も利得も発生せず、争いも起こりようがない空白地帯。

 

空白だから、新しく何かを設定するときにはクリーンでよりイージーということになる。

 

過去の争いを忠実に描き出すには現代の協調が欠かせず、現代で協調したものは次にあるかもしれない争いでは公式・非公式な交渉の窓口になるかもしれない。だから公式(アカデミック)でも非公式(エンタメ)でも協調して協働するんだと思った。

 

瀬戸内海に地中海。多島海を実感するような似たような景色は、俯瞰すれば案外似たような歴史を作ってきたのかも。かもかも。

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(これは、お昼寝中の鴨たち)

収穫の秋、オレンジ色のトマト

ミニサイズではなく普通サイズのオレンジ色のトマトを見つけたので、珍しく思って買ってみた。作ったのは、牛すじ肉のトマトシチュー。

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みじん切りにしたニンニクとスライスした玉ねぎをオリーブオイルで炒め、下茹でしておいた牛すじ肉を加え、ミキサーでピューレ状にしたオレンジ色のトマト3個分とブイヨンキューブを加えて塩コショウに好みのハーブ(オレガノやセージなど)にローリエを加えて15分ほど煮込み、仕上げにどっさりパセリを振っただけ。

 

半分に切って縦にスライスした玉ねぎ1個分も、下茹でした牛すじ肉も冷凍庫にストックしておいたもの。

 

冷凍のスライス玉ねぎを使い、トマトはざく切りしただけのものよりも皮を剥いてミキサーでピューレ状にしたものを使うと短時間でもより煮込んだ感が出て、仕上がりもよりシチューっぽくなった。

 

丸ごとトマトを使うと酸味が強いからいつもなら砂糖で甘味を補うけれど、今回のトマトはその必要もなく味が決まった。もしかすると、そもそも調理用のトマトだったのかも。


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(これは収穫の秋のフルーツ、今年もプルーンは美味しかった。)

標準的な大きさのトマト3個分にブイヨンキューブは1個だけ。水分は白ワイン大さじ2杯ほどと、リーペリンソース(あるいはウスターソース)大さじ半分から1杯分ほどを加えただけで、ほぼトマトだけで作った煮込み料理だから、鍋もお皿も水洗いだけでかなりきれいになった。使った洗剤はほんの少し。

 

ほんのちょっと油を使って食材を炒めて、煮込む。和風の野菜の煮込み、煮っころがしや肉じゃがも大して鍋は汚れないように、ほぼトマトだけで煮込む煮込み料理も大した汚れにはならなかった。

 

下茹で済みで油っ気の抜けた“茹でたお肉”と合わせたから、なおさら汚れにくかったのかも。

 

思えば和食中心の献立は、大して汚れもしないから洗い物も簡単だった。米・味噌・醤油、野菜多めで動物性たんぱく質少なめの献立から、肉々しい動物性たんぱく質多め、ご飯がすすむ濃い味付けの献立に移行したときにまず気付くのは、油汚れ。

 

濃い味付けのものはご飯がすすむけれど、汚れものもどっさり出る。ご飯が進む濃い味付けの食事を毎日美味しく食べようと思ったら運動が欠かせない。

 

人口のほとんどが若く活発だと食が進んで汚れものが増えて、サイズや需要に合わせて服は次々に買い足して買い替える。

 

人口のほとんどがそう若くもなくそう活発でもないとたくさん食べず、服をとっかえひっかえすることもないかわりに、汚れものは少なくなって食べ残し・使い残しなどの廃棄も少なくなる。

 

人口ボーナス期にオーナス期。プラスでもマイナスでも一方向への動きに合わせて集団が動くと、変わる環境に合わせて集団も変わる。

 

老いた都市が老いた住民に合わせて老いる準備を始めようと一方向へ動きはじめたところに、老いているわけでも住民でもない者いってみれば浮動票を大量に迎え入れると、老いへの準備が遅くなる。

 

老いへの準備が整っていない、実際には老いた都市に老いてもいない・住民でもない者が大量に流入すると、汚れものや廃棄がたまって老いた都市の負担がますます重くなって新陳代謝するより前に、街が老いていく。

 

プラスとマイナス。両方経験すると双方への備えを意識するようになって、双方に備えようとするか双方は無理だからどちらかに備えようとして街の性格が決まっていく。

 

得手も不得手もなく万遍なく高得点なのは優等生で、都市の優等生はボーナス期にもオーナス期にも強いから開発余地が少なくなって、地面のお値段も高くなっていく。

 

そう考えると、住民が老いれば街も老いる。その経験を何サイクルも繰り返している都市の地面のお値段は、だからびっくりするほどお高いんだと思えば特に驚くこともなくなる。

 

そして、小さなつづらと大きなつづら。小さな方にはツールがコンパクトにおさまっていて、大きな方にはツールごと入るようにスペースだけはたっぷり。その場合どちらを選ぶかには、選ぶ人の性格が出やすいんだろう。

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これは、街で見掛けたカワイイやつ。