クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

ホリデーシーズン

実は簡単だけど見た目はご馳走っぽくみえる、塩釜焼きを勤労感謝の日に作ってみた。

 

中身は豚かたまり肉とラム肉。焼き肉用のラムは食べやすいひと口サイズで、塩釜との接地面が多くなるせいか、しっとり焼き上がった豚かたまり肉と比べなくてもよく焼けた。ジャーキーみたいな食感だったから、赤ワインの肴にちょうどよかったらしい。

 

塩500gに卵白1個。肉が多いと塩500gでは覆い切れないので、1㎏に増やす。余った卵黄はキッシュの卵液とヨーグルトババロア風ムースに使い回し、残りがちな卵黄もきれいに使い切って大満足。

 

卵黄が余りがち。卵白が余りがち。そういうレシピには食指が動かないけれど、余った時の使い道が決まっていれば遠慮なく試せる。

 

塩釜は、大きく作らなくても手軽にできるので、ひと口サイズのラムやその他。多めに買ってジャーキー風のおつまみとして仕込んでおいて、余った卵黄はキッシュやババロア、あるいはカスタードクリームに使いまわすと、残り物も出なくてスッキリ。

 

余りがちな食材を余すことなく使い回す。そういう思考回路で嗜好回路が出来上がっていると、廃棄が少なくなってコストカットにもつながって、単体のコスパを気にすることも少なくなって、使いたいところにお金を回すことができるようになるのかも。

 

豚かたまり肉とラムの塩釜焼きにグリーンサラダ。肉の塩気が強いのでサラダにドレッシングはなしで、パンやライス代わりにキッシュ。先週末には食べ切れなかったチーズフォンデュにはじゃがいも・サツマイモにかぼちゃに芽キャベツを添えて。デザートは、あっさりヨーグルトババロア風ムースで。f:id:waltham70:20211125122754j:imagef:id:waltham70:20211125122818j:imagef:id:waltham70:20211125122824j:image

本当にあっさり淡白なヨーグルトババロア風ムースだったので、もっと濃厚かつリッチにしたかったら、ヨーグルトは水切りヨーグルトにして、缶詰や冷凍のフルーツで甘味を足して、フルーツソースやピュレを添えるとより手が込んでるように見えそう。

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塩釜は魚を包んで魚風にお絵描きすると、よりハレの日っぽくなって遊べる。

 

ありふれた材料で誰でも作れるものは、ありふれている材料だけで出来上がっているけれど、誰でもは作れないものに出合ったとき、すぐにそうとわかる。

 

例えば、温泉まんじゅう。チープで美味しいからぱくぱく食べられるけど、あれと同じものを家庭で作ろうと思っても、もう生地も餡もハンドメイドでいちから作れる人は、そう多くはないように思う。

 

クリスマスにお正月にその他と、カレンダーをのぞけば休日や連休が増えるシーズン。

 

何を作ろうかと考えるのはもてなす側で、“同じようなおもてなし”を考える人が多くなるほど、もてなす側のおもてなしも予定通りに進む。

 

見た目、あるいは素材が変わり映えしなくても。もてなす側ともてなされる側、双方の思惑が一致していると幸福度も上がり、ぼったくろう・ぼったくられまいの緊張状態からは遠く離れ、幸福なマンネリ状態が訪れるのかも。かもかも。

持続可能になったら新しい

グレートリセットとも呼ぶような、大きな転換点を経たあとでは周期的に“新しい生き方”にスポットがあたるけれど。

 

新しい生き方の中身はその時々で変わっても、結局それまでの常識やルールでは持続不可能な生き方だと思えば大体間違いない。持続不可能な新しい生き方が、それまでの古い常識やルールに囚われた古い生き方に包摂されると、古いも新しいもないから“新しい生き方”はそのうち新しいものではなくなる。

 

美術館にあってもおかしくないような、素晴らしい翡翠(多分)のイヤリングに魅了された若い女性が、通りすがりの豊かで洗練された男性から、翡翠のイヤリングと一緒に自身のお買い上げを打診される。

 

という物欲ありきのシンデレラストーリー、シンデレラになるかならないかで揺れる女性を描いた短編小説を、大昔に読んだことがある。

 

今日明日の食べ物に困るほどの貧ではないけれど、資産で食っていけるほど富裕ではないから給与収入を得ている。そういう女性が、資産で食っていると思われる男性から、美術館にあってもおかしくないような高価な宝飾品を贈り物として打診される。

 

眉唾ものの申し出に対して女性の警戒心が薄いのは、海外旅行中という非日常での出来事だから。という設定と、物欲ありきの申し出にどう応えるのかという設問は、今から思い出しても秀逸だった。

 

翡翠のイヤリングはあまりにも素晴らしく、またその素晴らしいイヤリングは今の自分だからこそよく似合うはずという、自身の売り時や旬がわかっているから高く売ろうかどうしようかで悩む女性心理が読ませどころ。

 

豪華な装身具を身に着けて動き、非日常が日常のように見える男性の申し出を受けることは、安定と堅実と繰り返しの日常に背を向けて享楽を選ぶようなもの。

 

安定と堅実と繰り返しの生活では、翡翠のイヤリングを身に着けることはないけれど、その代わり美術品のように眺めてうっとりすることができる。そもそも、美術館にあってもおかしくないような美術品だから魅了された。

 

そういうものを常に身に纏うようになったときも、ただのんびりうっとり眺めるだけで満足できて、そして二人は仲よく暮らしましたとさが続けばお伽話も続く。

 

翡翠のイヤリング、あるいは翡翠のイヤリング付きのステキな異性を手に入れただけではめでたしめでたしで終われず、続かなかった、続けられずに持続不可能になった時にはお伽話も続かず、安定もしくは不安定で、堅実あるいは破綻した繰り返しが待っているのかも。

 

持続不可能なはずのものが持続可能になったのなら新しく、持続不可能なはずものがやっぱり持続不可能になったのなら、新しくない。

いつかは現実になる

セルビアという国の名を初めて知ったのは、その頃はまだ歴史の浅かった少女マンガ誌の中だった。

 

大正時代の貴公子(日本人)が想いを寄せる青年(日本人)の恋人(セルビア人)が、セルビア独立運動のために活動中というエピソードは、1980年代前半としては、結構ぶっ飛んでる。

 

ちなみに、現在でも一体どこからの独立をめざしての活動だったのかはよく知らない。

 

とはいえ、日露戦争で極東の新興国日本が大国ロシアに勝利したことで、日本と同じように列強支配に脅かされていた各地の小国が民族主義に目覚めた。という受験のために仕入れた知識とも合っていて、大正時代の空気や雰囲気の補強にもなった。

 

最初期の頃には、少女マンガなのにほとんど女性が登場しないワールドワイドなサッカーマンガなどもあって、おんな子供が対象とはとても思えなかった。

 

すでに歴史を重ねて保守化するメディアでは受け入れにくいコンテンツの受け皿は、往々にして歴史が浅い=新しいメディアだった。そう思えば偏った内容にも納得で、その傾向はわりと最近まで続いていたんだと思う。

 

インターネットのメディアといっても今はよりどりみどりで、インターネットのメディアでひとくくりなんて、できるわけがないけれど。

 

初期のインターネットメディアが、左がかっていた(ように見えていた)。というのは考えてみれば当たり前のことで、主張したいことはあっても主張する場がない。そういう層が、インターネットという新しいメディアに真っ先に乗り込んできた。だから、そう見えていただけのこと。

 

すでに新しくとも何ともなくなったメディアは、相応に保守化する。最初期には主張が目立っていたメディアも、主張することがなくなる(あるいは主張する人がいなくなる)と、主張を前面に押し出すことをやめ、主張とは別のものを売り物にする。

 

だって、その方がよく売れるから。

 

歴史を重ねようと思った時、真っ先に考えるのはお金の算段で、金銭面での見通しが立っていれば歴史は続くし重ねられる。

 

重ねられなかった時は、別の新しい何かが生まれ、重ねられなかった歴史の鬱憤を晴らすかのように、新しいメディアでの主張も激しくなる。

 

夜空でひと際明るく輝く超新星は、誕生の光ではなく爆発の名残り。

 

その構図と一緒で、老成することなく常に激しい主張だけで出来上がっている、老いることのない新しいメディア(=歴史の浅いメディア)は、歴史を重ねられずに爆発した(させられた)メディアの受け皿なんだと見ることができる。

 

だから、常に激しい主張だけで出来上がっているメディアを続けようとするとワールドワイドになって、全世界から理不尽や憤りを搔き集めてくる必要がある。それさえネタが尽きたら次は、自らが理不尽や憤りネタの生成器となる。

 

その段階まで来ると、成熟期に入ったり老成化して激しい主張をすでに必要としなくなった、スタート地点では一緒だった他のメディアとはもう違っている。

 

金銭面での算段が、すでについているからメディアに取り組んでいる側と、取り組みながらお金の算段もつける側では、体力が違う。

 

すでにお金の算段がついているメディアのトーンは一定で、退屈とも紙一重になりがち・退屈だと体力のない側からは攻撃されがち。

 

体力のない側は、体力がある時は元気いっぱいで、体力がない時はもう青息吐息。という状態に、なりがちなのかも。かもかも。

 

元気いっぱいの時と元気のない時と。落差が激しかったものの差が縮まって、常に一定のトーンを保てるようになったのなら長距離走に入ったってことで、体力がついた証し。

 

セルビアという国の名は、受験のための勉強ではまったく出番がなかったけれど、後年現代史で現実の出来事としてめぐり合った。

 

歴史を重ねられたメディアの最初期では、日本人には遠かった出来事やエピソードもやがて現実になる。

 

無謀に見えても長距離を走れるほどの体力をつけ、新しいメディアの歴史を重ねていくのは、きっとそれがわかっているから。だから、一見無茶に見えても無謀でも、やめないんだ。

温故知新

新しくなった。便利に、あるいは良くなった。そう聞いても新しいとも便利とも良いとも感じない古いものは、古いものを頼る。

 

という構図があると、古いもののなかに新しいものが紛れ込むようになって、新しいはずのものが古いものに取り込まれたり、あるいは古いはずのものが新しいものに取り込まれたりして、境界がぼやける。

 

その結果、新しくする前には想像もしなかった、想定とは似ても似つかぬものが出来上がってくるのかも。かもかも。

 

正式な結婚はしていない(=籍は入れてない)けれど、パートナーとして公認・周知されている。主に悪だくみの場ではホステス(あるいはホスト)としておもてなし役を務め、表には出ない形で後始末も含めて何かと世話や面倒をみる。

 

という好悪が分かれそうで毀誉褒貶ありそうな人物を肯定的に描くなら、描いた側はその種の人物を肯定している。

 

常識も道徳も、時には変わる。

 

そもそも好悪が分かれそうで賛否両論ありそうな、ひと癖ある人物の描かれ方が変わった時、常識や道徳が動いて変わったんだと、すぐわかる。

 

だから常識や道徳の揺らぎは、ひと癖ある人物を時代がどう扱うのかを追っていくと、すごくわかりやすくなりそう。

 

全面的または全方位的に肯定できない、毀誉褒貶ある人物を最初から登場させるのならむしろ親切。

 

例えば自身の欲望のために弱者を道具に使う、聖人でも聖者でもない油断ならない人物の存在をあらかじめ知っているのと知らないのとでは、世の中の捉え方が違う。

 

全面的に肯定できる、模範となる人物しか登場しない虚構の世界は、油断ならない人物と出会うこともない別世界。

 

だから現実世界で、目的のためには手段を選ばない、油断ならない人物と対峙した時には警戒することもないから、美味しく頂かれてしまう。

 

要するにバランスの問題で、“好きだから“”よく食べるから“という理由で、甘いものばっかりや塩気の強いものばかり与えていると、著しくバランスの悪い何かが出来上がる。

 

好きなものばかり。欲しがりそうなものばかり与えるのは、そもそも著しく偏った、バランスの悪い何かを手に入れたいから。という警戒心とともに取捨選択して、美味しいとこどりをするならむしろバランス感覚に優れていて、強かな相手と対峙するための生きる知恵かも。かもかも。

お化けだぞぉ~でバケラッタ

天才はコピー対象じゃないから、コピーするなら努力で現在地点にたどり着いた方。

 

誰がどうみても特異で特殊だから、つい目を奪われるしコピーしたくなって、あっという間にチルドレンが増えちゃうんだけど。

 

だから次の攻防戦は食うか食われるかで、増えたチルドレンをどうやって食わしていくの?とチルドレンに食われてなるものかの最接近が、最も緊張を強いられるゾーンでセンシティブ。

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お化けだぞぉ~という雰囲気をもっと醸し出したかったら、歯はギザギザにするとよりソレっぽい。バケラッタのO次郎風にするとジャパニーズお化け風で、そっちでも良かったかも。

 

大人のためのお子様ランチハロウィーンバージョンは、オムライスのお化けに野菜(カリフラワー、スナップエンドウ、ヤングコーン)のグラッセ、茶巾に絞ったパンプキンピューレとひと口鹿肉ステーキにキャンディーチーズの野菜ピック、それにカブのポタージュで。

 

マスキングテープがあれば、お子様ランチに必須の旗を作るのはわりと簡単で、海苔はお化けの顔を作るのにとっても便利。

 

キャラ弁とともに海苔は海を越えて、“キャラ弁とその派生系に必要なツール”として第二の人生を歩んでいるかも。

 

オムライスに野菜のグラッセ、茶巾かぼちゃにピンチョス風のひと口ステーキと、どのパーツもひとつひとつは大して難しくも手が込んでいるものでもないんだけど。パーツを揃え、揃ったパーツを組み立てている間は、料理というより工作のお時間で、料理とは別もの。

 

この種の作業は、工作が得意だと仕上がりももっとキレイで可愛くなるに違いないけれど、自己満足で作る分にはこんなもので十分満足。

 

なんてったって、ハロウィーン → そうだハロウィーン風にしようと、今日何食べようや何作ろうという献立を考える作業からの逃避で休日だから。逃避したつもりが予想外に手間がかかったので、結局は逃避になったようでなってない。そういう意味では休日のイベントとしてちょうどよかったけれど、食べ物をデコって遊ぶハードルはやっぱり高い。

 

高いハードルを回避して地味や地道に徹すると、閑もコストも無駄使いせずに済むけどイベント感が無くなって、すべてが地味になる。

 

コストを意識した途端に引っ込められるものは、そもそもギフト。ギフトだから、余裕がないとできないし出回らない。

 

生産が需要を上回ると、生産超過になって買い叩かれるから、需要があるうちに引っ込めて出し惜しみするのは生存戦略のひとつ。

 

ばら撒くタイミングと出し惜しむタイミング。緻密に計算して最適ポイントを探るのが努力型で、計算なしで出たり引っ込んだりするタイミングが最適ポイントとしてコピー対象になるのが、天才型。コピー対象にならないのは、紙一重だからかも。かもかも。

小麦粉やそば粉が教えてくれること

ガレットやクレープを焼く時に困るのは、焼き上がったガレットやクレープの置き場所。

 

お湯を張って温めた鍋の上にお皿を載せ、温かいお皿で保温しながらだと最後の一枚が焼き上がるまで温かいまま。という暮らしの工夫が、ここ最近でいちばん感心した豆知識。

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食べ放題のブュッフェでよく見かける、温かい料理は温かいままで出す工夫を家庭用に置き換えたら、まぁそうなるわな。という意味でも感心した。

 

ガレットを焼くためにスーパーその他で買うそば粉は、同じ重量でも小麦粉よりもずいぶんいいお値段で、小麦粉はやっぱりコスパがいい。コスパがいいと思うのは消費者サイドのものの見方で、サプライヤーからするときっとそば粉の方がコスパはいいはず。そして、コスパがいいといえばなんといってもお米で、それはやっぱり主食だから。

 

小麦粉さえあれば、蒸しパン・ケークサレにスナックケーキ、スコーンにショートブレッド、簡単な焼き菓子お腹溜まる系と、パン代わりに何かと重宝する。重宝するだけで、お米の方が守備範囲は断然広いんだけどさ。

 

バナナブレッドを焼く時にはバナナをペースト状にして使うけれど、バナナの代わりにサツマイモをペーストにして使うとスイートポテトブレッドになって、秋という季節にちょうどよし。季節感ある焼き菓子になった。

 

そば粉で焼き菓子あるいはクイックブレッド系を作ろうとしても、どうにもレパートリーは広がらなくて思い浮かばない。

 

蕎麦がきのアレンジで、すいとんやお団子風にして季節の野菜と煮込むと、急に冷え込んで寒くなった時にちょうどよかった。蕎麦打ちのハードルは高いから、家庭で食べるなら蕎麦がきや団子風の汁物になる。案外産地でもそんな風にして食べているのかも。

 

お米を炊く時に時々一緒に炊き込むもち麦や押し麦は、野菜たっぷりのスープに加えると雑炊風になって、(大して疲れないけど)疲れた胃に優しい一品が出来上がる。

 

例年より暖かい今年はもう十月も終わりとは思えないほどで、寒暖差が激しいから油断するとすぐに寒気がやってくる。寒暖差に加えて外気温と室内温度の差も激しくなる今頃は、体調を崩しやすいので体の中から温まりたい。スープ、特にポタージュが美味しい季節がまたやって来た。

 

木枯らしよりも強烈だったのは、台風かと思う強風で、何の音かわからないまま風の音で目を覚まし、あとで実は強風によるものだと知った。

 

強い風が吹いた時は、それなりに建物が建て込んでいる街中でもあんな風になるんだという経験が役に立つのは、もっと無防備な場所へ行った時。

 

無防備な場所で大自然の驚異に無防備なまま晒されると、急いで堅牢な要塞都市にでも逃げ込みたくなるものなのかも。

歪みやしわ寄せが明らかになるのは、大人になってから

シングルマザーが大量に出現するのは、大きな戦いがあったあと。

 

シングルマザーといってもさまざまで、ひとくくりにはできないけれど。立派だったパートナーを失ったあと。その愛情は、年齢その他で釣合いの取れた新たなパートナー候補に向かうこともあれば、パートナーの面影を濃厚に残す忘れ形見に向かうこともある。

 

夫に先立たれたまだ若く美しいシングルマザーが、ニューヨークで息子と暮らしている。そこに、夫の故郷であるイギリス、それも伯爵家から後継者として遺児をイギリスに迎えたいと使者がやって来る。母子はともにイギリスに渡り、広大で美しい領地を持つ祖父である伯爵とともに暮らすようになる。

 

という『小公子』のストーリーは、息子の幸せを願う母親にとっては夢いっぱいで、ドリーム全開。

 

お話の舞台は1837年以降のインドが大英帝国に組み入れられたヴィクトリア時代。書かれたのは1880年代の南北戦争終結から20年は経った頃で、アメリカではすでに大陸横断鉄道が開通し、北部では工業化が進んで南欧や東欧からも新たな労働力として移民が流入し、パリ万博でエッフェル塔が建つほんのちょっと前。

 

つまり、これまでの農業中心の封建社会の常識が通じなくなる“新しい時代”。新しい時代に困るのは子どもの教育方針で、『小公子』はそんな状況に登場してくる。

 

父性が健在で、男性が新しい時代にあっても労働者やその他としてがっつりコミットし、新しい時代のロールモデルとして機能していればともかく。頼る先も頼るものもないシングルマザーが、利発で気立てがよく向学心があり、ついでに大変見た目のいい男の子に恵まれていたら、さぁどうしましょ。

 

『小公子』では、パートナーに代わる父性として痛風持ちで癇癪持ちの老伯爵が登場する。

 

地位も権力も財力もある大金持ちではあるけれど気難しく、いってみればオーナー企業のワンマンオーナーで、基本他者の意見は聞かない。

 

美点あるいは長所といえば“お金持ち”であることで、小公子セドリックは老伯爵のしっかり閉じた財布のヒモを、いともたやすく開けてゆく。いかにも子どもらしい、可哀想という“慈悲”の気持ちが偏屈な老人の心も動かし領地を変えてゆく。

 

小公子セドリックは、母親の愛情を存分に注がれて育っているので優しく愛情深いけれど、優しくて気立てのよい箱入り息子は、世間擦れして世慣れた大人にとっては、手玉に取りやすくて餌食にしやすい。

 

母性によって小公子セドリックの美質は磨かれたけれど、母性だけでは世間に立ち向かうには足りない。厳しく冷淡ともいえる祖父ドリンコート伯の父性の両方が揃うことで、セドリックの美質はより磨かれていく。

 

自身の欲望を叶えるために、時には子どもを道具に使う。そういう側面を持つのもまた母親で、聖母ではない母が欲望を叶えるために子どもを道具に使った時、慈悲も無ければ利発でもない取替えっ子が生まれてくる。

 

利発で慈悲深く、実務的に判断して処理できる。だから領民に慕われる。その種の資質に恵まれた後継者を真っ直ぐに育てようとしても、すぐに横槍が入る。そういう状況で後継者の育成を託すなら、“足の早いもの”に限る。

 

愛情や慈悲といった“思い”だけでは足りず、権力や財力といった“力”だけでもモノにはならない。思いと力、双方に恵まれて育まれた時、優しくていい奴は、優しくていい奴では終わらず何者かになれるのかも。かもかも。

 

選べない選択を迫られた時、そのしわ寄せは子どもあるいは将来に回る。しわ寄せや歪みが明らかになるのは、子どもが大きくなって社会に出た時。

 

大量のシングルマザーが出現したであろう、南北戦争終結から二十年。戦争によって生まれた“思い”と“力”が著しくアンバランスな遺児が、労働や社会を担うようになって歪みやしわ寄せが目に見えるようになったから、新しい時代に反動的ともいえるロールモデルを掲げた。と、勝手に『小公子』の登場を読み解いてみる。

 

立派な方を選ぶか、立派ではない方を選ぶのか。

 

新しい世の中で、無理を重ねて新しい家風に馴染もうとしなくても、断絶も無理も選ばず立派だったパートナーの実家(=イギリス)を素直に頼れ。という処方箋にも見えてくる。

 

庶民レベルではアメリカとイギリスの関係も、微妙で敵対的な時代もあった。という過去も思い出せた再読したバージョンでは、挿絵が幼少期に親しんだいわさきちひろでなくても楽しめた。

 

子ども向けの世界文学全集か何かで親しんだ、いわさきちひろが描いた小公子セディはそれはそれは愛らしくて、小公子のイメージアップに間違いなく貢献してた。

 

母性や父性に全幅の信頼を置けない人物を登場させるのは、児童文学のある種の伝統でお約束で、なぜなら彼らは単に第三者だから。第三者だから、当事者ではなく市場を見て、その時々で好まれそうなものを市場に投入してくるだけ。