クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

歪みやしわ寄せが明らかになるのは、大人になってから

シングルマザーが大量に出現するのは、大きな戦いがあったあと。

 

シングルマザーといってもさまざまで、ひとくくりにはできないけれど。立派だったパートナーを失ったあと。その愛情は、年齢その他で釣合いの取れた新たなパートナー候補に向かうこともあれば、パートナーの面影を濃厚に残す忘れ形見に向かうこともある。

 

夫に先立たれたまだ若く美しいシングルマザーが、ニューヨークで息子と暮らしている。そこに、夫の故郷であるイギリス、それも伯爵家から後継者として遺児をイギリスに迎えたいと使者がやって来る。母子はともにイギリスに渡り、広大で美しい領地を持つ祖父である伯爵とともに暮らすようになる。

 

という『小公子』のストーリーは、息子の幸せを願う母親にとっては夢いっぱいで、ドリーム全開。

 

お話の舞台は1837年以降のインドが大英帝国に組み入れられたヴィクトリア時代。書かれたのは1880年代の南北戦争終結から20年は経った頃で、アメリカではすでに大陸横断鉄道が開通し、北部では工業化が進んで南欧や東欧からも新たな労働力として移民が流入し、パリ万博でエッフェル塔が建つほんのちょっと前。

 

つまり、これまでの農業中心の封建社会の常識が通じなくなる“新しい時代”。新しい時代に困るのは子どもの教育方針で、『小公子』はそんな状況に登場してくる。

 

父性が健在で、男性が新しい時代にあっても労働者やその他としてがっつりコミットし、新しい時代のロールモデルとして機能していればともかく。頼る先も頼るものもないシングルマザーが、利発で気立てがよく向学心があり、ついでに大変見た目のいい男の子に恵まれていたら、さぁどうしましょ。

 

『小公子』では、パートナーに代わる父性として痛風持ちで癇癪持ちの老伯爵が登場する。

 

地位も権力も財力もある大金持ちではあるけれど気難しく、いってみればオーナー企業のワンマンオーナーで、基本他者の意見は聞かない。

 

美点あるいは長所といえば“お金持ち”であることで、小公子セドリックは老伯爵のしっかり閉じた財布のヒモを、いともたやすく開けてゆく。いかにも子どもらしい、可哀想という“慈悲”の気持ちが偏屈な老人の心も動かし領地を変えてゆく。

 

小公子セドリックは、母親の愛情を存分に注がれて育っているので優しく愛情深いけれど、優しくて気立てのよい箱入り息子は、世間擦れして世慣れた大人にとっては、手玉に取りやすくて餌食にしやすい。

 

母性によって小公子セドリックの美質は磨かれたけれど、母性だけでは世間に立ち向かうには足りない。厳しく冷淡ともいえる祖父ドリンコート伯の父性の両方が揃うことで、セドリックの美質はより磨かれていく。

 

自身の欲望を叶えるために、時には子どもを道具に使う。そういう側面を持つのもまた母親で、聖母ではない母が欲望を叶えるために子どもを道具に使った時、慈悲も無ければ利発でもない取替えっ子が生まれてくる。

 

利発で慈悲深く、実務的に判断して処理できる。だから領民に慕われる。その種の資質に恵まれた後継者を真っ直ぐに育てようとしても、すぐに横槍が入る。そういう状況で後継者の育成を託すなら、“足の早いもの”に限る。

 

愛情や慈悲といった“思い”だけでは足りず、権力や財力といった“力”だけでもモノにはならない。思いと力、双方に恵まれて育まれた時、優しくていい奴は、優しくていい奴では終わらず何者かになれるのかも。かもかも。

 

選べない選択を迫られた時、そのしわ寄せは子どもあるいは将来に回る。しわ寄せや歪みが明らかになるのは、子どもが大きくなって社会に出た時。

 

大量のシングルマザーが出現したであろう、南北戦争終結から二十年。戦争によって生まれた“思い”と“力”が著しくアンバランスな遺児が、労働や社会を担うようになって歪みやしわ寄せが目に見えるようになったから、新しい時代に反動的ともいえるロールモデルを掲げた。と、勝手に『小公子』の登場を読み解いてみる。

 

立派な方を選ぶか、立派ではない方を選ぶのか。

 

新しい世の中で、無理を重ねて新しい家風に馴染もうとしなくても、断絶も無理も選ばず立派だったパートナーの実家(=イギリス)を素直に頼れ。という処方箋にも見えてくる。

 

庶民レベルではアメリカとイギリスの関係も、微妙で敵対的な時代もあった。という過去も思い出せた再読したバージョンでは、挿絵が幼少期に親しんだいわさきちひろでなくても楽しめた。

 

子ども向けの世界文学全集か何かで親しんだ、いわさきちひろが描いた小公子セディはそれはそれは愛らしくて、小公子のイメージアップに間違いなく貢献してた。

 

母性や父性に全幅の信頼を置けない人物を登場させるのは、児童文学のある種の伝統でお約束で、なぜなら彼らは単に第三者だから。第三者だから、当事者ではなく市場を見て、その時々で好まれそうなものを市場に投入してくるだけ。