クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

抽象的な方は、元気いっぱい

耐久年数に賞味期限に寿命と、カタチあるものは大体有限で、有限だから終わりにできる。

 

耐久年数も賞味期限も寿命もカンケーないものって一体何さ???と考えると、大体抽象的なものに寄っていく。だから、耐久年数も賞味期限も寿命もカンケーないカタチあるものは、抽象的なものを具体化あるいは具現化したものになる。

 

抽象的でカタチのないものは掴みどころがなく、人によって理解も異なるから、抽象的でカタチのないものに対する態度も一様じゃない。

 

相対した時の態度が一様じゃなくても一向に構わないのは、理解が異なっていても構わず実害もないか少ないから。

 

実害を伴う、抽象的なものに相対した時の態度を誰でも同じにしたかったら、抽象的なものを具体化して、理解も一様で誰でも一緒になるよう仕向けていくことになる。

 

熱した油に指突っ込んだら、火傷する。

 

くらい平易にわかりやすく、抽象的なものに相対した時の対応も一様で誰でも一緒になると、熱した油を具体化あるいは具現化したものに無防備に指突っ込むような無謀な対応をする人もいなくなる。

 

あれは熱した油かそれとも銭の箱モノか。

 

モノの見方は人によって違うを、無防備に指突っ込んだら火傷する、熱した油状のものにまで適用すると、火傷する人が続出するだけ。だけど、銭の箱モノを常に求めてる側が効率を追求すると、たいていは熱した油にたどりつく。たどりついて火傷する。

 

何をどんな風に理解するのも自由っちゃ自由なんだけど。銭の箱モノと誤認した人が次々に指突っ込んで、火傷や大火傷する人が多数になれば、誰でもあれは銭の箱モノではなく単に熱した油だと理解する。

 

本来カタチがなく、耐久年数も賞味期限も寿命もないものにカタチを与えて具体化あるいは具現化させたのなら、終わらせるため。

 

カタチがないものを終わらせるよりも、カタチあるものを終わらせる方がずっーと簡単。だから、終わらせたいのに終わらないものは、余力がなくなるとともに続々と具体化あるいは具現化の道をたどり、終わりに近付いていく。

 

逆に抽象への道をたどるものは、余力いっぱいで元気いっぱいなものってことになる。