クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

ブラックジョークの用い方

子供のために犠牲となって伸びた行列と、子供を犠牲にして伸びた行列と。

 

どちらの行列が長いのかは、そのコミュニティや集団の性格を如実に表すものだけど、だからといって行列の長さだけで、どちらが利己的で利他的かはわかるものでもなし。

 

自身の得意分野を生かすことが子供のためになるのなら、犠牲になることもたやすい。犠牲になることで、子供が得意とする何かの足しになるなら、客観的には犠牲でも主観的には犠牲でも何でもない。

 

例えば早朝のお弁当作りとか。手を抜くこともたやすいけど、手を抜きたくないから睡眠時間や調理時間という自身の持ち時間を犠牲にしても、やり甲斐がある。それで子供の健康が守れて、ついでに食育にもなるならさして苦でもない。

 

食育どころか、ついでに撮った写真を使い回しして何かのお小遣い稼ぎでもできたら、さらにお得感が増すだけだから、パパがんばっちゃうしママがんばっちゃう。

 

パパやママ、親に期待できなかったら、自分たちの持ち時間を削りつつ、自分たちでがんばるしかない。自分たちでがんばるしかないけれど持ち時間は平等で、削れるところを削っても足りないところは合理化の出番。

 

時短に役立つアレやコレは、自身の持ち時間を可能な限り有効に使いたいから重宝されるのであって、当たり前だけど自身の持ち時間を可能な限り無駄に使いたい人には好まれない。

 

普及して当たり前になると、何でも値段が下がるようにできてるもんだけど。いつまでたっても普及せず当たり前にもならないと、いつまでたっても高止まり。高止まりのままということは、普及してない何よりの証拠で限られた需要しかないという何よりの証拠。

 

限られた需要しかないものを普及させるためには、子供が犠牲になるかそれとも子供のために犠牲になった方が普及がすすむのか。卵が先か鶏が先かみたいな話だけど、双方試してみてもさっぱりだったら、もうまったくダメダメだってこと。

 

時短可能なものは何でもショートカットして、自身の持ち時間を可能な限り増やしたい人は多くいても、その逆は少ない。時短可能なものすべてのショートカットに背を向けて、自身の持ち時間を可能な限り減らしたい人なんて、滅多にいるわけないじゃん。

 

不均衡や非対称をフラットにならすと、だいたいは商機になるんだけどさ。

 

自身の持ち時間を可能な限り減らしたい人と自身の持ち時間を可能な限り増やしたい人とのマッチングは、持ち時間を減らしたい人の数が増えない限り、いつまでたっても不均衡でアンバランスなまま高止まる。

 

自身の持ち時間を減らす、削ってもいいのはたいていの場合血縁、それも子供のように明らかに尽くし甲斐のある相手に限られるものだから。

 

次にホニャララとなるのはかくかくしかじかであろう。

 

みたいな、警告の形をとったイヤガラセや怖がらせはイタチの最後っ屁みたいなもので、単なる捨て台詞。結局のところホニャララになってるのはかくかくしかじかの存在じゃなくて、単に捨て台詞を吐いた君の方やん、イタチさん?

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今年は雪が少ないので、この種のサプライズに出会う機会もまれ。

という構図をクリスマスや年の瀬に持ってくるのはわりと高度なジョーク、それもブラックジョークの類で、ブラックジョーク好きなお国柄を感じさせる。

お先に失礼します

子供が大人びた子供になっている。という意味の文章を見掛けたのは、余裕でひと昔前。

 

ひと昔前と、今と。大きく違っているのは、いわゆる子供、どこからどう見ても子供であっても、年金を筆頭に社会で大きく取り上げられがちな話題を否応なしに目にする機会が増えた、その環境。

 

社会で大きく取り上げられがちな話題が詰まった媒体と言えば、まずは新聞だったひと昔前に、新聞をじっくり読んでいるような子供はきっと珍しい。

 

そこは環境がものを言って、親の職業柄や教育方針で、そう仕向けられていた子供もいたに違いないんだけどさ。その意味も内容も理解することが難しい何かを読むよりも、年齢相応に、それはつまり同年代のお友達と話題にしやすい、もっと平易で楽しいものに夢中になってる方が、よりひと昔まえ当時の子供らしく思える。

 

目にするもの、耳にするもの。話題となり話題とするものすべてが大人と一緒で大人と変わらない環境に身を置いたら、実年齢がどうであってもそりゃ速やかに大人になって、大人びた子供になるのも無理はない。

 

それがそもそも子供の意思で望んでのことだったら、問題ないんだけどさ。

 

速やかに大人になって、一足飛びにオッサンオバサン化したとしても、結局一緒に歳を取っていくのは同年代じゃん。同年代の層が薄すぎると、速やかに大人びた子供になってオッサンオバサンとつるんでる方が、旨味は増えるかもだけど。

 

大人が子供、あるいは未成熟と言い換えてもいいかも知れない自分たちとは遠い立場に居る人の意見を時に尊重するのは、自分達とは違うから。違う立場から見たものの見方だから意味がある。なのに自分たち大人と常に同じ立場に立ったものの見方しか出てこない、子供らしくない子供のものの見方には、見るべき何ものもなし。

 

その種の大人びた子供は、一瞬にして「子飼い」に変わる。

 

だったら未熟な子飼いから見た世界よりも、習熟した子飼いから見た世界を尊重した方がずっと役に立ちそうで、結局のところそんな世界では想定外も想像を超えたハプニングも起こらない。ロードマップ通りで、ロードマップを作った側のものさ。

 

人口逆ピラミッドで、同世代の子供の層が薄いのは局所的な現象。むしろ同世代の子供の層が、これまでにないほどぶ厚いことを実感できるのは、人口増が実感できる場所に身を置いてる方。

 

旨味が大きいからと、オッサンオバサンとつるんでた。趣味嗜好がそもそも大人びていたわけではない大人びた子供の狡さを、同世代とちゃんと一緒に歳取ってきた子供やもと子供は見逃さない。見逃すはずがない。

 

趣味嗜好や性向がそもそも狡猾で、狡猾であるほど重用されるようなコミュニティに絡み取られると、誰だって狡さを身に着ける。閉じたコミュニティでは有用な知恵も、場所が変われば無意味で有害。

 

袋小路に追い詰められたら手練手管や小狡さは有用かもしれないけれど、袋小路のはずが整地されて、誰にとっても見通しがよくなったら透明性やわかりやすさの方がずっと有用。

 

不要となる未来を見越し、不透明さを磨いてわかりやすさに背を向けるのは、わざとさ。

 

袋小路に追い詰められ、狡猾さを磨き上げないと脱出もできなかった。同世代と一緒に歳を取ることを許されず、人為的かつ強制的に大人びることを強制されて子供らしい時間を奪われた、ひと足先に未来に送られた腹いせでしかない。とか考えると、不透明でわかりにくいものが、いつまでも残り続けるのも納得する。

 

人為的かつ強制的に行われた不透明でわかりにくいものは、清算するにも相応の労力がいるもんさ。短縮しようとしたら、稼ぎまくって予算つけるしかない。常勝という言い方があるけどさ、つねに大きな犠牲を伴っていたら、勝って稼がないとしょうがない。

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今では雪に覆われている、この数字の意味は何なんすかね?

つねに犠牲になってきた。偏りある犠牲の中身まで透明になった時、人は何を思うかに想像がおよんでいたら、滅多なことはできないししない。滅多なことはしないしできないことをやらせるのなら、子飼いがぴったりさ。

 

個人的にほっこり

粒度にはもうちょっとバラつきがあった方がよくて、ついでに卵の味がもっと濃厚だとより美味しく感じられて好み。スポンジケーキの話なんだけど。

 

気泡もなく断面がきれいに揃ったスポンジケーキが焼けると、よく出来たとそりゃ嬉しくなるもんだけどさ。それが美味しいかどうかの基準はまた別で、粒度も感じられないほど粒揃いだと、いまひとつ。毎日お粥食べても飽きないような、ソフトな食感が好みだと、粒度も感じられないくらい粒揃いで舌の上で蕩けそうなほど柔らかい方がいいのかもだけどさ。

 

美味しいのかどうか。未知数の時にはバックトゥベーシックで、シンプルで基本的なものを試してみると、合う合わないがよくわかる。基本でベーシックなものがまず舌に合わないと、恐らく全般的にどれも辛口評価になって、何食べても満点評価にはなりにくそう。

 

型がなってないと、型やぶりがサマにならないのも似たような理屈かも。

 

最近は気温が高めで、路上の雪もほとんど融けてる。それでも一部が凍った池の中で、鴨が寒そうに泳いでた。泳ぐのがイヤなのか、池の畔で寒そうにうずくまってる鴨もチラホラで、鴨だってやっぱり凍った池の中では寒いんだな。

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ちょっと前の鳩。鴨もこんな風に、首をすくめて丸まってた。

型がなってないと型やぶりもサマにならないとはいえ、型が決まっていて定型化しやすいとすみやかに機械学習や自動化の餌食にもなりそうで、だから好んで不定形を選んで型を定めない。おとなしくエサになるのがイヤだったら、そのくらいの抵抗はやりそうでありそう。

 

鍛錬のたまもので、元々はお手本になれるような型通りが身に着き過ぎていると、型を崩して不定形をとるのも難しそうなんだけどさ。そもそもお行儀がよい人に無作法を強いたところで、多分無茶苦茶不自然にしかならなくて、もともと行儀の悪い人にお願いすると、無作法も難なく務まる。

 

無作法で傍若無人な振舞いで眉をひそめられてきたような人が、ある日突然マナーの行き届いた紳士淑女になれるかというと、そんなの無理。後天的な学習の成果、それも超絶努力した結果です、パンパカパーン!と、生まれ変わった姿を派手に宣伝したところで、タイマーや我慢が切れたら続かない。

 

続かないから、更生がウリで超絶努力の結果がウリな、更生したはずの人の姿もいつの間にか見掛けなくなる。

 

本当にそんな人居たの???と、疑問に思うのはそんな時。特に、セールスポイントが一緒で下位互換や上位互換したような、全体から受ける印象がよく似た別の人がパンパカパーン!と登場した時には、ことさら強くそう思う。

 

ついでに、超絶努力のすえに本当に更生して成功したような人が、派手なイロモノ扱いを好むかと言うと、そこも疑問。重たい看板を背負わされ、あるいはイヤイヤ担ぎ上げられた神輿にでも乗っていれば、また別の話。

 

重たい看板と、乗せるのは誰でもいい神輿は、どっちかっていうと逃げられないように押し付けられるもの。押し付けられた側は、次に押し付けたい誰かを見つけるまでは降りられないようになっていて、ある意味片道切符。

 

行きはよいよい帰りは怖いじゃなくて、帰れるかどうか未知数な片道切符のお値段は、そうと気付かれないようにきっとプレミア付き。とか考えると、個人的にほっこりした。

在庫の山

雪が降ってる方が案外暖かくて、雪が降らないままだとただ冷え込んでいくだけのような気がしてならない今朝は、とっても寒かった。寒いんだけど、例年より雪は少ないまま。少ないから、本当なら今頃は雪の下で埋もれているはずの銀杏の実が、未だに臭い。

 

すべてを白く覆い隠してくれる雪は、時として消臭剤にもなっていた。ただ今年は消臭剤の効き目、今んとこ薄げ。

 

いつ終わってもおかしくないものが延々と続いていると、最初期にいつまでも続きますようにと仕込んだ仕組みがよっぽど上手に回ってんだな、と思う。いつ終わってもおかしくないものが延々と続いている、その秘訣はやっぱり中の人しか知らないもの。

 

作る側に立つ方と、売る側に立つ方とでは、時として利害が衝突する。

 

生産休止が近く在庫を多数抱えたものは、新製品が出るとわかっていてもその事実を伏せて、できるだけ在庫を減らしたい。在庫を減らしたいあまり、買う側に立つ方に対して不正直になって、新製品が出る事実は伏せて在庫を押し付けがち。

 

新製品の方が飛び切り魅力的なのに在庫を押し付けられたと気付いた方は、売る側に対して不信感を抱きがち、次は別のところで買おうとしがち。

 

ところが買う場所や店を変えたところで、結局はいつも不正直申告に振り回されるだけだとしたら、結局のところ売る側に立ってるのは、競争原理が働かない、カルテルのようなものなんだと気付く。

 

例えそれが、最終的には在庫調整に最適な合理化のためであっても、協調して自由競争を損なうのは、あかんやつやん。という場合、協調してないと言い抜けができるような確実な証拠がひとつでもあると、いい隠れ蓑になる。

 

知恵を付けて回ってるのは、きっといつも一緒。

 

例えば何か新しいことを始めたために、必要なものが売ってもらえないという経験を経て生産、ものを作る側に回った時、ぶつかる壁やボトルネックになるものも大体いつも一緒。

 

一緒だから、販路の開拓に過剰在庫のさばき方や、逆にモノが回って来なくて売るものに困った時。あるいは今どきだったら労働力不足とか。困った時には知恵を貸し、場合によっては人材も派遣するけれど、代わりにこちらのお願いもきいてね☆今すぐじゃないんだけど。

 

という相手と取引きしたが最後で、何しろ経験値と蓄積や集積、あるいは汲めども尽きぬ人材の宝庫とか。どれひとつとっても叶いそうにない相手とどう戦うかと言えば、新しいフィールドしかない。

 

新しいフィールドに一番に乗り出しているのも、きっといつも一緒。ハツモノの時にはいっつもいる、あるいはハツモノの時にしか見ないというメンツに、入れ替わりやあるいは総とっかえが起こった時が、本当に世代交代が進んだ時。

 

世代交代が進むと序列の逆転が起こり、序列の逆転に合わせて、今までいっちゃん割りくっていて損な役回りだった何かが浮上する。そういう序列の逆転は過去に何度も起こっているから、どう序列が変わろうと得することも割を食うこともなく「今までどおり」でいられるのも処世術のひとつ。

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何もかも変わったように見えるなかで、なーんにも変わってないのは不自然極まりなくて、不自然極まりないから何か細工があるように見えるんだな、きっと。増やすのは簡単で、ただ減らないようにするのはいつだって大変さ。

物は考えよう

レコードがCDになってCDがストリーミングになるように、何かを楽しむ時の主要なメディアが切り替わるたびに抜け落ちるのは、ビギナー向けの情報。

 

ビギナー向けの情報は、相手がビギナーゆえに嘘やニセ情報を吹き込むのも簡単で、簡単だから嘘やニセ情報でも広告として使える。

 

本当はそんなもの、この世には存在しないし今だかつて存在したこともない。

 

その種のものを嘘やニセ情報の中に混ぜ、さも実際に存在するかのようにリテラシー低めの層を狙って広告し、本当だと思い込んだ人の数や問い合わせが増えて採算ラインを超えたら本当にする。

 

損も在庫も抱える余裕はなし。だけど“メーカー”という看板を掲げている以上は何かを作らなきゃならない。余裕はないから確実に売れるものだけ作りたいし、どうせでっちあげるなら、一つも二つも三つも四つも一緒。

 

という虚実が入り混じると、実態なんて簡単に揺らぐ。

 

実態を揺らがせたい側にとっては大歓迎で、揺るぎない実態しか求めてない側にとっては大迷惑。双方の仲が悪いままだと緊張状態が保て、相互監視にもなるけれど、双方が手を取り合ってお互いを便利に使いだすと馴れ合いの始まり。

 

緊張に耐えられないと馴れ合いになだれ込みやすく、緊張に耐えられないのは競争とは無縁だった方。アラ、“競争のない社会“が往々にして腐りやすく、腐敗しやすい理由がなんとなく感覚的に理解できた気分。

 

桁違いの札束が実弾として飛び交うバブルに沸いた経済戦争に、ビンボーだったから参戦できず、結果として対岸の火事に終わってバブルが弾けたあとも無傷で居られた。という故事や教訓は、実際に無傷で生き延びた側にしか伝わってないもの。

 

スッカラカンやすってんてんに比べたら、ビンボーの方が断然マシ。

 

スッカラカンやすってんてんになってしまったら、よりごのみする余裕なんてないから何でも受け入れるしかなくなる。どうやっても受け入れられないものを受け入れてしまうと、感情なんて速やかに失われ、誰かの命令を聞くだけの意思のない物体が出来上がる。

 

人だったら考えるし、喜怒哀楽という感情の持ち合わせもたっぷりある。

 

考えることも感じることも手放すのは、最後の最後。手放した瞬間から、人間扱いなんてしないしされない。古代文明の昔にならえば、ピラミッドや古墳、あるいは万里の長城だって築けるはずの金銀財宝ザックザクなのに、実際はそうならない現実に苛立ってる。

 

ヒエラルキーの遥か高みに、傲慢な人が実際にいたらそのくらいしそうではあるんだけど。

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ビギナー向け、初心者向けに嘘吹き込む奴は、ろくなもんじゃない。

現実はそうなってるわけでもなく、どっちかっていうと持たざる側にスリスリすり寄ってくるようだと、金の生る木は持たざる側にこそあるんだってことかもね。

面影

単に一から十、あるいは一から百や千まで徹頭徹尾お金の話でしかないんだけど、金くさい話になったらいつでもどこでも首突っ込みにくる勢がいるから、あからさまに金くさいお話ができないようになってるもんなんだけど。

 

何を言ったかより誰が言ったかで、その意味がまったく変わってくる筆頭は美辞麗句。

 

例えば分断。分断はよくないから、分断を超えて団結しましょう。ひとつになりましょうと呼びかけてる母集団が、やらずぶったくりのぼったくり集団だったとしたら、ひとつになった途端に同じようにやらずぶったくりにぼったくりを強制される危険性がある。

 

通過儀礼として、不法行為スレスレあるいは不法行為そのものを強制して、集団への一体感を深めるという伝統が、あるところにはあったもんだけどさ。例えば大学の友愛組織、フラタニティとかさ。今でもあるのかどうか知らんけど。そんな行為は、集団への帰属を明らかに求めてる者同士でしか通用しない。

 

極端な例えだけど美辞麗句は、数の力で道理を曲げたい・踏みつぶしたい勢に使われると、台無し。

 

台無しになるとわかってるから、数の力で道理を曲げたい・踏みつぶしたい勢は、数の暴力と言われないために、美辞麗句の持つ効果や効用を最大化できる人材をいつだって求めてんでしょ。鬼や怪物は作りやすく、作りやすいから量産も可能で簡単さ。

 

ほんとは単に数の力で暴力でしかないんだけど、総意ってことにすれば、総意になるよう仕向けた個人の罪は問われないし、明らかにもならない。その手順が手慣れていたら、何度も繰り返してる常習犯だってことになる。

 

常習犯が集えば効果もより高くなり、常習犯のなかに混じった右も左もわからない初心者は、すみやかに朱に染まって赤くなる。そうやって違う意見や異なる見解をふみ潰していけば、速やかにみんな一緒になれる。

 

感情を殺すことに慣れ、作業に慣れた人からは、どうして?という疑問は生まれなくなる。

 

挙国一致は削除対象で、年齢や人種にバックグラウンドが異なる多様性のある集団が本当に多様だったら、一人くらいはNOと言う。異なる意見が出る方が自然で、出ないのは不自然。NOと言う人が誰もいない多様な集団は、見た目が違うだけの金太郎飴で、結局は同根で同類が、不自然に一ヶ所にかき集められたと考える方が自然さ。

 

その種の不自然は、データから見るときっともっとあからさまで、不自然をあぶり出したいからデータと向き合うんだと思ってる。

 

世界中どこに行ってもいっちゃん食いつきのいい話題は金くさい話で、どうオブラートにくるんでも結局は金くさい話にしかならないんだったら、世界に出る意味なんてないじゃん。

 

と、引きこもってお金のことしか考えなかった人は、お金そのものをコレクションするという伝統芸のアップデートを考えてたのかも。

 

奥が深くて極め甲斐があるから伝統芸に目を向けたところで、伝統芸を嗜む行為だってお金そのもののコレクション化につなげようとするのが、金くさい話が好物で大好き勢。数が増えたら、それまで意味があってそうなっていた序列も台無しで、世界中の人から見てわかりやすくなりましょうとか言われそうで、わかりやすくなった伝統芸からは昔日の面影なんて速やかに奪われる。

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黄色くなった後は、ハラハラと落葉するから落葉松なんだな。。

奥が深くもなく、極め甲斐もない。昔日の面影が消えたら、何が残るのさ。ローカルティを失ったローカルの、どこに魅力を感じればいいのかわからないのと一緒で、どこも一緒になったら台無しもいいとこ。

勝手に注がれる

今だってパパのことが大好きなのに!!!と、言われた瞬間にデレッとどこまでもだらしなく伸びる鼻の下に、全身に漲る謎のパワーとか。

 

あるいは、やっぱりオフクロの作るホニャララが一番うめぇや。。と、ボソッとつぶやかれた瞬間にシャキーン!と10歳くらい若返ってテキパキハキハキ張り切って活動し始めるとか。

 

才能や能力が偏在するように、母性本能や父性本能も偏在しているもののひとつ。有り余るほどたっぷり持ってる人と、そもそもあんまり持ち合わせのない人と。その落差も激しい。行き場のない母性本能や父性本能を、くすぐって動かす(あるいは転がす)のが上手な人は、母性本能や父性本能を信じてる。

 

目には見えないけどあるとわかってるから、上手に転がすことができる。

 

その逆に、信じていないし信じられないものは、目にも見えないし感じることもできないから、上手に転がそうとしたって土台無理。

 

どういう状況やシーンなら、母性本能や父性本能がより強く発揮されるのか。愛情を注がれまくって育つと、体感的に知っている。知っているから甘え上手でおねだり上手になって、欲しいものもちゃっかり手に入るようになっている。

 

親やその他、愛情に囲まれて育った恵まれた環境にある人が、時により多くを手にしてるように見えるのは、単に甘え上手でおねだり上手だから。与えることや甘えて頼られることが喜びとなる人達に、敢えて甘えておねだりすることで喜んでもらい、その対価を手にしてるだけ。

 

与えて注ぐ行為そのものが喜びだから、他者や第三者の目から見るときっと過剰。

 

過剰だから、与えられた経験も注がれた経験もなければ理解不能な領域で、与えられたことも注がれたこともない集団の中に、与えられて注がれまくった個体が混じると悪目立ちして分断が起きる。

 

父と娘、母と息子にファザコンとマザコンという組合せは、一種の永久機関でエネルギーを外部に頼る必要がない。外部に頼る必要がそもそもないから、無駄にエネルギーを消耗することもない。

 

シックスポケットにプラスアルファで両親以外の愛情もたっぷり受けて育つ、逆三角形の下の方は、どの内部エネルギーに頼るか選べる立場。渋いエネルギー源と大甘エネルギー源と。時々で使い分けながら、居心地のいい場所を探すだけ。

 

めちゃくちゃ甘―い飴くれるんだけど、その分鞭も厳しい相手から効率よく飴を摂取するもよし。飴ばっかり食べ過ぎて安穏とし過ぎた辺りで、ちょっと鞭に打たれるもよし。所詮は永久機関で内部で完結してる関係だったら、外部の鞭に比べたらずっとマシで鞭だって甘い。

 

数が増えるとそれまでの秩序は崩壊する。

 

秩序が崩壊したあとに始まる、新たな一等賞は誰だ競争では誰もが飴の大放出になるから、逆三角形の下の方にいると、飴食べ放題で甘やかされる。

 

溺愛されて育つとその種の気配にも敏感で、敏感だから、甘やかされるのが大好きで愛情が好物の人は、今頃ちゃっかりそのポジションに収まって、きっとニコニコしてる。

 

どう転んだって、愛情が勝手に注がれる。

 

その立場を存分に利用するのは単に得意を生かした姿で、得意気が時にネガティブに通じるように得意をひけらかすと、だいたい僻まれる。僻まれるのがイヤでひけらかさないことが美徳に繋がる集団の中に紛れ込んでたら、そりゃ悪目立ちもするさ。

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ちょっと前の景色。また雪が積もれば、今日か明日にでも復活してるかも。

体感的には今年の方が暖かくて雪も少ない。多少雪が積もったところですぐに融け、地面が顔を出す。予報では、明日から雪が続く。そしたらもうちょっと冬景色っぽくなるかも。