子供が大人びた子供になっている。という意味の文章を見掛けたのは、余裕でひと昔前。
ひと昔前と、今と。大きく違っているのは、いわゆる子供、どこからどう見ても子供であっても、年金を筆頭に社会で大きく取り上げられがちな話題を否応なしに目にする機会が増えた、その環境。
社会で大きく取り上げられがちな話題が詰まった媒体と言えば、まずは新聞だったひと昔前に、新聞をじっくり読んでいるような子供はきっと珍しい。
そこは環境がものを言って、親の職業柄や教育方針で、そう仕向けられていた子供もいたに違いないんだけどさ。その意味も内容も理解することが難しい何かを読むよりも、年齢相応に、それはつまり同年代のお友達と話題にしやすい、もっと平易で楽しいものに夢中になってる方が、よりひと昔まえ当時の子供らしく思える。
目にするもの、耳にするもの。話題となり話題とするものすべてが大人と一緒で大人と変わらない環境に身を置いたら、実年齢がどうであってもそりゃ速やかに大人になって、大人びた子供になるのも無理はない。
それがそもそも子供の意思で望んでのことだったら、問題ないんだけどさ。
速やかに大人になって、一足飛びにオッサンオバサン化したとしても、結局一緒に歳を取っていくのは同年代じゃん。同年代の層が薄すぎると、速やかに大人びた子供になってオッサンオバサンとつるんでる方が、旨味は増えるかもだけど。
大人が子供、あるいは未成熟と言い換えてもいいかも知れない自分たちとは遠い立場に居る人の意見を時に尊重するのは、自分達とは違うから。違う立場から見たものの見方だから意味がある。なのに自分たち大人と常に同じ立場に立ったものの見方しか出てこない、子供らしくない子供のものの見方には、見るべき何ものもなし。
その種の大人びた子供は、一瞬にして「子飼い」に変わる。
だったら未熟な子飼いから見た世界よりも、習熟した子飼いから見た世界を尊重した方がずっと役に立ちそうで、結局のところそんな世界では想定外も想像を超えたハプニングも起こらない。ロードマップ通りで、ロードマップを作った側のものさ。
人口逆ピラミッドで、同世代の子供の層が薄いのは局所的な現象。むしろ同世代の子供の層が、これまでにないほどぶ厚いことを実感できるのは、人口増が実感できる場所に身を置いてる方。
旨味が大きいからと、オッサンオバサンとつるんでた。趣味嗜好がそもそも大人びていたわけではない大人びた子供の狡さを、同世代とちゃんと一緒に歳取ってきた子供やもと子供は見逃さない。見逃すはずがない。
趣味嗜好や性向がそもそも狡猾で、狡猾であるほど重用されるようなコミュニティに絡み取られると、誰だって狡さを身に着ける。閉じたコミュニティでは有用な知恵も、場所が変われば無意味で有害。
袋小路に追い詰められたら手練手管や小狡さは有用かもしれないけれど、袋小路のはずが整地されて、誰にとっても見通しがよくなったら透明性やわかりやすさの方がずっと有用。
不要となる未来を見越し、不透明さを磨いてわかりやすさに背を向けるのは、わざとさ。
袋小路に追い詰められ、狡猾さを磨き上げないと脱出もできなかった。同世代と一緒に歳を取ることを許されず、人為的かつ強制的に大人びることを強制されて子供らしい時間を奪われた、ひと足先に未来に送られた腹いせでしかない。とか考えると、不透明でわかりにくいものが、いつまでも残り続けるのも納得する。
人為的かつ強制的に行われた不透明でわかりにくいものは、清算するにも相応の労力がいるもんさ。短縮しようとしたら、稼ぎまくって予算つけるしかない。常勝という言い方があるけどさ、つねに大きな犠牲を伴っていたら、勝って稼がないとしょうがない。
つねに犠牲になってきた。偏りある犠牲の中身まで透明になった時、人は何を思うかに想像がおよんでいたら、滅多なことはできないししない。滅多なことはしないしできないことをやらせるのなら、子飼いがぴったりさ。