クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

カタチのないものを根付かせる

平成最後の水曜日。ただそう言いたかっただけ。平成の終わりに向けて平成最後が連発される、ここ数日間かな。

 

ドイツでは“旅行のお土産”という概念は薄い、あるいはないらしい。と、テレビの旅番組で言ってただけなんで、真偽は知らね。知らないけれど、旅行先でお土産物を買いがち、お買い物好きな国民性はきっとあって、日本は多分その最右翼にきそう。

 

その旅先でお土産を買うのが好きな日本人に比べれば、一般的なドイツ人は旅行先でもお土産物にはお金を落とさない。という程度のものかも知れないけれど。

 

モノより思い出で、形あるものより形のないものを売る方がより難しい。

 

そもそも“旅行のお土産”という概念を持たないあるいは薄い人たちに、“旅行のお土産”という習慣を植え付ける、さらには土地の名産品を買いに行くのが目的で旅行に出てもらうとしたら、ひと苦労。

 

早くから形のないものを売っていた人たちほど、形のないものを根付かせ買ってもらうための、ノウハウや技術を貯めこんでいる。

 

ようよう形あるものを売り始める人たちとは、その時点でとんでもない差がついている。不安を煽れば効果が出るってものでもない。

 

例えばお弁当。

 

駅弁にキャラ弁にデパ地下弁当に空港で売っている空弁に。地味に派手に日本はお弁当の種類が豊富で、お弁当を自作するためのツールも豊富。ちっさい器にギュウギュウに詰め込まれた、色とりどりあるいは地味ながら別々に味付けされた具材の多彩さは、少量多品種なものが喜ばれがちな弁当事情あるいは食べ物に対するこだわりが垣間見れる。

 

そんなメンドクサイこと抜きにして、どーんとでっかいおにぎりやサンドイッチ、あるいはお湯を注げば出来上がりでもいいじゃない。という一点突破主義は、ちっさい器に詰め込まれた小宇宙を愛する勢とはだいたい相性が悪い。

 

ちっさい器に詰め込まれた小宇宙を愛してる人が愛してるのは、小宇宙を作るという行為そのもの。だから労を惜しまないし、時にはコストだって無視する。

 

小宇宙の創造主は、小宇宙を喜ぶ人がいる限り、やめずに続くよどこまでも。

 

作っているのはモノであっても、報われるとは限らない行為を支えているのがモノより思い出という発想だったら、そもそもその種の考え方をしない、したこともない人には根付かない。

 

モノより思い出という概念を捨て、思い出よりモノ、もっと端的に思い出よりカネをくれに転換させるのは、そもそも思い出を持たない人の方により根付きやすい。

札幌定点観測

現在の恥知らずは、5年後は流行の最先端なんだとか。

 

ホニャララの法則によると、そういうことらしい。だからといって、恥知らずが必ずしも流行の最先端になれるはずもなし。恥知らずが終わりの見えない行列をなしているようだと、最先端が回ってくるより先に、恥知らずを続ける気力の方が尽きる。

 

花粉はある朝突然にやってくる。

 

くしゃみに鼻水が止まらないと、シラカバ花粉の飛散が本格的に始まったのかと身構える。急激に上昇した気温が速やかに元に戻る、寒暖差の激しい日が続いた先週。寒暖差は激しいけれど日差しはおおむね暖かで、花粉あるいは花粉症とは無縁の春をかみしめる。

 

暖かくなったと無邪気に喜んでられるのも、花粉がないおかげ。あぁ花粉のない春は快適。

 

モクレンはもう少しで咲きそう。

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日当たりのいい場所にあるコブシは、毎年真っ先に花を咲かせてる。桜はまだ蕾。見頃はきっとGWで、歴史的10連休のさなかになると予想。歴史的絵巻が見られるのも、もうすぐ。

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下に目を向ければタンポポが。人の手が入った舌噛みそうな名前の園芸種が増えるとともに、数というより繁殖場所を失ったようにも見えるタンポポ。真っ黄色に染まった原っぱは、北海道の原風景のひとつだと思ってるんだけど、ビルで埋まっていく街中に、原っぱはのぞめない。

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木に咲く黄色い花はレンギョウ

街中では、ビルを建てるより空き地を空き地のまま残しておく方がお金もかかる。

 

空き地のまま残しておきたい人がいても、使わないなら有効利用をとの声あるいは圧力を、突っぱね続けるのは難しそう。

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この桜はもう咲き始め。ただし、つい最近移植されたもののよう。地に根付いた桜が咲くのは、やっぱりもう少し先。大都会ほど混雑していないのが、地方都市のよいところ。探せばあるいは郊外にまで足を伸ばせば、混雑とは無縁の場所はまだまだある。

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サギも一休みしてた池では、カメがひなぼっこ中で、どう見てもカモメ、鳴き声もカモメが水遊び中で、オシドリが餌をもらってた。入れ替わり立ち替わり、いろんな生き物がやって来ますな。

深窓は遠くなりけり

正義のヒーロー・ヒロインが生身の人間である限り、食べなきゃ生きていけない。正義のために働きます。ただし正義が為されたあとには、遅滞なく請求書通りの支払いもよろしく。

 

と、事前見積りなしで正義の執行をお願いしたらべらぼうな請求書が届き、払えなきゃ体で払えとばかりに、終わりの見えない御礼奉公に従事させられてます。という事例がひとつでもあると、うっかり正義の執行もお願いできやしない。

 

自称正義の味方が往々にして信用できないのは、お金の流れがブラックボックスだから。費用とついでに費用対効果も明瞭で透明性が確保されていると、何ごとにおいても安心だけど、そうなるともう単なるビジネス。単なるビジネスとなったらビジネスマナーが優先され、ビジネス上の作法から遠くなるほどに後回しあるいは疎遠となるのも必然。

 

市民革命あるいは産業革命後に生まれた、80日間世界一周のフォッグ氏やモンテクリスト伯エドモン・ダンテス。どちらも、彼らなりの正義を彼らなりのやり方で貫いた物語の主人公だけど、そのどちらも伴侶として選んだ女性は市民革命とも産業革命とも縁が薄げな、オリエンタルあるいはエキゾチックな土地出身の深窓のご令嬢。

 

市民革命あるいは産業革命で意識改革が進んだ地では、紳士でヒーロー気質な男性がそばに置きたいと思うような深窓のご令嬢はもう見つけられなかったという故事に由来するのかも。と想像するのは楽し。

 

深窓のご令嬢がその出自を生かしてビジネスに進出するのが、近代資本主義社会。資本主義化が進む都市では、深窓のご令嬢やご令息が深窓のまま引っ込んでられる場所も大してなし。深窓のまま引っ込んでられる場所がなかったら、めざすはオリエンタルあるいはエキゾチックな場所で、オリエンタルあるいはエキゾチックな場所は、だいたい近代からは遠いから、今はもう見つからないものがそのまま残されている。

 

都市から離れ、はるばるたどり着いた場所なら深窓のままでいられたはずが、すっかりその予定も狂ってしまったら、妙案が見つかるまでは予定外に合わせるしかない。

 

数が増えると秩序はなし崩し。

 

今ある秩序をなし崩しにするために、計画的に数を増やしてきたしたたかな相手には、相手以上にしたたかになるしかない。したたかと深窓のご令嬢ご令息は両立しないから、だいたい深窓のご令嬢やご令息が数を減らしていく。

 

数が少なく希少になったものは、たいていは珍重される。深窓のご令嬢ご令息が珍重されるのなら、それだけ数が減ったということで、大衆化が嬉しい人にはよい兆候。大衆化が面白くない人には、よくない兆候なんだけどさ。

一方通行

お金持ちが一切登場しない、お金持ちワナビー向けコンテンツの需要が一体どのあたりにあるのか謎。

 

お金持ちワナビーが見たいのはお金持ちであって、お金持ちワナビーがみたいわけじゃない。アイドル好きな人はアイドルが見たいのであって、アイドルについて語るアイドル好きな人が見たいわけじゃないのと一緒。

 

だからお金持ちワナビーしか登場しない、お金持ちワナビー向けコンテンツの発信者は結局、お金持ちにはなれなかった側と思ってながめてる。

 

お金持ちあるいは成功者が必ずやってるあるいは絶対やっていない系のフレーズがはいるだけで、どんなにいいことを言っていても台無し。褒めていようがけなしていようが、要するにお金持ちあるいは成功者へのラブレターは、公開ラブレターには興味ない人の目に晒されると、だいたい台無しになる。

 

台無しになることなんてすっかり承知のうえで、誰かや何かへの愛(憎悪含む)を叫ぶ人は、愛を叫ぶ行為そのものを愛してるだけで、メシの手段。メシの手段だから、褒めたりけなしたりをやめないだけ。

 

双方向を想定せず、ただ一方的に褒めたりけなしたりしてるだけだから、彼らの物言いは猛々しくて耳障り。猛々しくて耳障りなものとセットで記憶されると、愛情も憎悪も抜け落ちて、ただ耳障りなものだったとすべて一緒に記憶されてしまう。

 

悪い印象を植え付けたいものは、猛々しいものとセットにする。良い印象を植え付けたいものは、鉦と太鼓もセットで声高に猛々しく宣伝なんかしない。

 

印象操作って、そうやるもんでしょ。

 

自分たちの正業を、自分たちがよしとする本来の形とは違う形で利用し汚す奴は、ただ目障り。だから目障りなものは耳障りの悪いものと一緒にして、悪い印象を周囲にも抱かせるよう仕向けるもの。

 

持ちつ持たれつの一線を越えたあとでは、双方向なんてありえず一方通行。

 

全然関係ないけど、消費者保護からもっとも遠いのが不動産業界で、ノンリコースローンが一向に浸透してないのが何よりの証拠。不動産価値を毀損してもペナルティなしなら、価値を高めようとする動機は生まれにくいやね。

 

お金持ちが一切登場しないのに、今日も飽きずにあるいは懲りずに、お金持ちについて何か語っているのは、公開ラブレターを読むようでただ面白い。

 

ラブレターを貰いなれてる人は愛情を向けられるよりも、愛情を注げる対象に目を向けがち贔屓しがち。

ドン引き

フォーマットもテーマも統一するのは、同工異曲なものばかりを並べるためで、違いをあぶり出すため。

 

そんな場所で、明らかに他の大勢とは大いに異なるものを並べる人は、インプットが他の大勢とは大いに異なり、偏向したインプットを続けてきたから、アウトプットも偏向している可能性が大。

 

たいへん愉快で見た目も悪くないけれど、残念ながら「法治」、法による支配についてはまったく理解している様子がない。という人に権限を与えたら、何しでかすかわからず、しでかした後の後始末にどれほどの労力が必要かを考えたらお引き取り願うしかない。

 

苦労人から成功した人は、バカなことはしない。苦労人の背中を見て育った人も、バカなことからは距離を置く。苦労とはほど遠く育ち苦労を知らないと、バカなことをしでかしがち。三代目を乗り越えられるかどうかはきっと子孫繁栄の分かれ目で、だからこそ昔ありし家はまれ。

 

行く川の流れは絶えずして、しかももとの水ではあらずだから、あれもこれも使いまわしでオリジナルなんてもう絶えて久しい。オリジナルなんてもう絶えて久しいんだから、使い回す側ももうオリジナルにあらず。

 

お弁当に作り置き。

 

その種のタイトルばかりが目立つようになると、新年度の始まりを実感する。去年とは違うという雰囲気を演出するコツは、ニューフェイスニューフェイスから定番化するかどうかは未知数で、いくら推しが強力でも引きがなかったらどうしようもなし。

シンボル

毎年パートナーは変わり、一緒に子育てすることもない。

 

仲良し夫婦を時にオシドリ夫婦と言ったりするけれど、オシドリの生態は、仲良し夫婦のイメージからはかけ離れている。一般的な仲良し夫婦のイメージとはまったく異なるかわりに、子孫繁栄のヒントが詰まってる。

 

役割分担が明確で、役割を押し付け合って揉めることもない。定期的にパートナーが変わればそのたびに新鮮な気持ちでパートナーと向き合うこととなり、気持ちが醒めることもなく仲睦まじくいられ、子供もできやすい。結婚と離婚と再婚を繰り返し、そのたびに子供が新しく生まれるようなら、半世紀もたてば立派な大家族となって種はいつまでも安泰。

 

見た目が派手なのは、オスの方。派手な見た目でメスの気を惹き、繁殖期が終われば派手な羽根は抜け落ち外見も地味になるんだとか。年中派手な外見をしていると、メスの気を惹く以上に外敵に狙われやすくもなるから、自然の摂理はまったくよくできている。

 

役割分担で揉めるのも、定期的にパートナーを変えるような“わりきり”がきかないのも、自然ではなく社会に生きてる人間だから起こること。という、小難しいことはうっちゃって。ただつがいが仲睦まじくするさまは微笑ましいから、古来より仲睦まじい夫婦の象徴として扱われてきたんだと、実際に仲睦まじい姿を目にすると実感できる。

 

決して仲良くできないしなれない“違う種“を一緒にして、みんな仲良くを強いるのはストレスのもとで諍いのもと。諍いを見るのがストレス解消源となってる人には、ちょうどいい暇つぶし。誰かのちょうどいい暇つぶしのために、闘わせられる方はやってられない。

 

闘牛に闘鶏あるいは闘犬。そういや昔は剣闘士なんてものもあって、“闘いを見る”行為は古来から暇つぶしのタネ。暇つぶしが破壊行為の鑑賞となるのはとっても非生産的で、生産手段を持たないと、非生産的な行為が暇つぶしになる。

 

餌をくれとも言わず、散歩をせがむこともない植物を愛でるのは、見返りは極小でいいという態度。美しく咲く花、あるいはすくすくと育つ成長を見ることそのものがご褒美。折々の反応が楽しいのは、そりゃ生き物の方。面倒くさいこともあるかわりに喜怒哀楽を態度で示す、その反応こそがご褒美だけど、喜怒哀楽が激し過ぎると世話する方の消耗も激しい。

 

花、あるいは植物を育てるのは、激しく消耗することなく世話したい向きにはちょうどいい暇つぶしさ。

 

信仰の有無にかかわらず、長くシンボルとして親しまれてきたもの。なくなったら喪失感を味わうのは一般的な反応で、広く共有された喪失感は、喪失を感じる人たちに一体感をもたらす。だからといって、一体感を得るために喪失を経験させるのは、順番が逆で感じ悪くなる。

札幌定点観測

晴天に恵まれた週末は、気温も上昇。

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ようやくやってきた春の日差しを求めてか、老いも若きもみなゾロゾロとお日様のもとに集ってた。

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魚もゾロゾロ。

浴びれる時に、お日様の光浴びとかなきゃね。という、紫外線など気にもとめずに日光浴を優先する姿は、北国の人に特有できっと万国共通。すっかり雪も融けた道を、てくてく歩く。ヒールのある靴も久しぶり。久しぶりなので、ただ歩くだけでもいい運動になる。

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そもそもポプラに花は咲かないけどね。

木蓮、あるいは桜に梅といった、木に咲く花が咲くのはまだまだ先。今の季節は、木よりも地面。カラフルな球根植物の花が、可愛らしい花を咲かせていた。

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別に何するわけでも何が目当てってわけでもないけどさ。天気のいい日に、ただぶらぶらと歩く。その種の場所に苦労しないのはきっといいことで、公共交通という大量輸送手段は偉大。

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ちょっと車を走らせれば、緑豊かな自然には事欠かないけれど、駐車場には事欠き駐車場難民、あるいは駐車場待ちで長蛇の列を作る郊外お出掛け事情。公共交通とマイカーの、中間形態がもっとも快適度も高そうと思うのはこんな時。

 

つがいの片方だけがやたらと派手で目立つのは、オシドリだからか。そういう季節なのか、そこかしこと言うほど数は多くないけれど、ちょくちょく見かけた。

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群で咲いていると、より可憐さが際立つスプリングエフェメラルかな。殺風景な景色を見慣れ過ぎていると、ようやく春になってお目にかかるこの種の妖精さんたちが、めったやたらと好ましい。

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ミズバショウも見っけ。札幌でももうミズバショウが咲くんだな。

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お金はお金を大事にする人のところに寄っていくように、たいていのものも大事にする人のところに寄ってくもの。大事にしない人のところには、寄りつかない。

 

木に咲く花は早々取り換えはきかないけれど、地面に咲く花、特に常に人の手が入ってるような場所では、去年の花と今年の花はしょっちゅう変わる。あら、今年はホニャララは咲いてないんだね。と、細かいところを見てる。

 

木は折々にばっさり切っちゃって、思い切りがいい。よく育った木を、どこからなりと調達できる算段があれば、切ることにもためらいなんてなし。