クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

シンボル

毎年パートナーは変わり、一緒に子育てすることもない。

 

仲良し夫婦を時にオシドリ夫婦と言ったりするけれど、オシドリの生態は、仲良し夫婦のイメージからはかけ離れている。一般的な仲良し夫婦のイメージとはまったく異なるかわりに、子孫繁栄のヒントが詰まってる。

 

役割分担が明確で、役割を押し付け合って揉めることもない。定期的にパートナーが変わればそのたびに新鮮な気持ちでパートナーと向き合うこととなり、気持ちが醒めることもなく仲睦まじくいられ、子供もできやすい。結婚と離婚と再婚を繰り返し、そのたびに子供が新しく生まれるようなら、半世紀もたてば立派な大家族となって種はいつまでも安泰。

 

見た目が派手なのは、オスの方。派手な見た目でメスの気を惹き、繁殖期が終われば派手な羽根は抜け落ち外見も地味になるんだとか。年中派手な外見をしていると、メスの気を惹く以上に外敵に狙われやすくもなるから、自然の摂理はまったくよくできている。

 

役割分担で揉めるのも、定期的にパートナーを変えるような“わりきり”がきかないのも、自然ではなく社会に生きてる人間だから起こること。という、小難しいことはうっちゃって。ただつがいが仲睦まじくするさまは微笑ましいから、古来より仲睦まじい夫婦の象徴として扱われてきたんだと、実際に仲睦まじい姿を目にすると実感できる。

 

決して仲良くできないしなれない“違う種“を一緒にして、みんな仲良くを強いるのはストレスのもとで諍いのもと。諍いを見るのがストレス解消源となってる人には、ちょうどいい暇つぶし。誰かのちょうどいい暇つぶしのために、闘わせられる方はやってられない。

 

闘牛に闘鶏あるいは闘犬。そういや昔は剣闘士なんてものもあって、“闘いを見る”行為は古来から暇つぶしのタネ。暇つぶしが破壊行為の鑑賞となるのはとっても非生産的で、生産手段を持たないと、非生産的な行為が暇つぶしになる。

 

餌をくれとも言わず、散歩をせがむこともない植物を愛でるのは、見返りは極小でいいという態度。美しく咲く花、あるいはすくすくと育つ成長を見ることそのものがご褒美。折々の反応が楽しいのは、そりゃ生き物の方。面倒くさいこともあるかわりに喜怒哀楽を態度で示す、その反応こそがご褒美だけど、喜怒哀楽が激し過ぎると世話する方の消耗も激しい。

 

花、あるいは植物を育てるのは、激しく消耗することなく世話したい向きにはちょうどいい暇つぶしさ。

 

信仰の有無にかかわらず、長くシンボルとして親しまれてきたもの。なくなったら喪失感を味わうのは一般的な反応で、広く共有された喪失感は、喪失を感じる人たちに一体感をもたらす。だからといって、一体感を得るために喪失を経験させるのは、順番が逆で感じ悪くなる。