クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

同根だと、ジョブチェンジも容易

食事前のハラヘリどきに摘まむ甘いもの。

 

これがいかんのよなと思いつつも、甘いものなら何しろそのあたりに転がってるから、つい摘まむ。甘いものが生活から消え、しょっぱいものなら何しろそのあたりに転がってるようになったら、生活あるいは環境が変わった証し。今のところ、変わる気配なし。

 

何かを偽物と断じるなら、じゃあ本物は何さと本物の定義が欠かせない。

 

例えば偽ブランド品。この場合は、真似されたブランドが出してない製品、あるいはそっくりだけど、ブランドが関知しない別の場所で作られ売られているものだから、本物も偽物もわかりやすい。

 

フェイクファーにフェイクジュエリーは、本物そっくりだけど本物の毛皮でも宝石でもないもので、本物についてはリアルファーなんて言い方もある。

 

では、フェイクニュースに対するリアルって何さ???と考えるとよくわからない。

 

事件を捏造したり、無実の罪を着せるならフレームアップの方がより適当で、起きても居ない事件を事件として報道したり、犯してもいない罪を着せて誰かを犯罪者として報道するなら、それはもはやフェイクなんて軽いものじゃない。

 

フレームアップをフェイクニュースと言い換えた途端に、いたずらっぽくて語感も軽く、ついでにフレームアップほど罪も重くないような雰囲気がしてくるマジックかな。そんなこと、実際にニュースを扱う人たちにとっては自明のことなんだろうけどさ。

 

いたずらっぽくて語感が軽いと、薄っすらよくないことと知りながら、それでも軽い気持ちで片棒さえ担げそうな軽さがある。それが実はフレームアップで、対立するあるいは陥れたい相手を選んで社会的に孤立させ、攻撃する行為だとしても、全体像を知らず知らされてなかったら、わかりようがない。

 

社会的孤立へと追い込まれてる、当人や当事者以外にはさ。

 

社会的孤立に追いやったあとで、周囲にはワケアリばっかり配し、ホラ君は一人じゃないよ!ワケアリと仲よくすればいいよ!とやるのはさらに高度な攻撃パターン。

 

そもそも暴力的な人は、合法的に暴力をふるっても問題ない場所をめざし、暴力とは距離を置きたい人は、どうやっても暴力なんてふるえない場所をめざす。

 

ものかげでのカツアゲが平気な人は、権力にモノを言わせて無理難題を強いることも平気で、結局は同根。同根だから、見た目はまったく異なっていたとしても、ジョブチェンジしたところで違和感もなし。

設計図

信頼を失う行為にもいろいろあるけれど、子供に嘘を教えて恥じないと、信頼はたちまち失われる。ついでに嘘を教える子供を選んでいて、こんなものを有難がる子供には嘘で十分と特定の属性を持つ子供にだけおかしなことをわざと吹き込むようだと、もう救いようがない。

 

救いようがないから、もう救いは現れない。あとは、せいぜい自力で地獄の住み心地をよくするくらい。救いようがない系のひとたちが、えてして拝金主義に走りがちなのも納得で、地獄の沙汰はお金次第だもんね。

 

おかしなことをおかしいと感じる感受性さえ失った人たちには、近寄ると危険というよりもはや毒さ。

 

カメラや動画は、ありのままを映し出す強力な武器。ありのままを映し出された後に、なんとか上手く取り繕うと思ったら、ありのままを映し出した事実でさえほんとかな?と疑いたくなるように、言葉と表現力を駆使して事実を翻弄する。

 

9・11では、世界中の人たちがワールドトレードセンターに飛行機が突っ込んでいく様子を目撃した。その時の映像は、繰り返し放送されたにも関わらず、しばらく、何年か経つとあれは本当にあったことじゃないと言い出す人たちが街頭で演説してた。

 

何のためにそんなことをしてたのか。真意はわからないけれど、全世界の目撃証拠があるにも関わらず、あれはなかったと言い出す人たちは一定数居て、彼らは事実を翻弄するのがお仕事あるいは務めと思ってやっている確信犯。おかしなことをおかしいと感じる感受性を失ったか持ち合わせてない人たちだから、遠巻きにするに限る。

 

産業革命は、長時間労働と低賃金労働をセットで運んできて、金融業者が栄えた時代。

 

という歴史に学び、時短と高収入労働を実現させ、金融業者は栄えないようにした人は負の歴史は繰り返したくない人。ヤッホー産業革命!ウェルカム長時間労働と低賃金!だった人は、工場の稼働率を極限まで高めて利益を総どりしてた。

 

システムや仕組みは、そこに込められた思想をよりくっきりはっきり映し出す。

 

悲しみに暮れる人の方がより多くなるシステムや仕組みを設計した人は、ハッピーな人は極小でいいと考えている。その反対に、ニコニコ笑顔の人がより多くなる仕組みを設計した人は、悲しみに暮れる人は極小でいいと考えている。

 

そんなにうまくいきっこないんだけどさ。

 

悲しみに暮れる人は極小ではあるけれど、辛酸をなめつくすかのように苛まれ、その辛酸に薄っすら気付いてる人からも笑顔が消え、全体が澱んでる状態だと、一体誰がどんな思惑で設計したものか設計し損ねたのか。

 

そもそもそこには思想なんてなかった。思想を持たないモノが設計したものだったとでも思うしかない。

インターミディエート

現在の気温は1℃。ぐずついた空から霧雨のような雨が降り始め、雨は雪に変わって傘が必要なほどの名残雪が激しく降ったあと、小止みになってきた。

 

東京の最高気温は20℃にはなるそうで、温かくて羨ましいと思うと同時に、花粉のシャワーもふんだんかと思うとゾッとする。花粉のシャワーより名残雪の方がはるかにマシで、アレルゲンと切り離された生活は快適。

 

例えば陸上競技。ただ走ってるだけじゃんというマラソンや駅伝を、競技関係者以外も楽しくそれなりに緊張感を伴って眺められるのは、多分に実況の力。実況のアナウンスもなく、音を消した画面だけでも競技を楽しめる人は、解説されるまでもなく自身の中に競技に対する“見立て“がある人。見立てを邪魔する、あるいは別の見立てを大声で吹聴する実況は、だから邪魔者。

 

邪魔だから、競技に対する自身の見立てを至上と考える人は、他者の考えを受け入れない。受け入れたくないから消音モードにして、他者の見立てをシャットダウンする。

 

実況なしでも競技を楽しめる人は、競技に対する知識が豊富で、面白さのツボを押す引き出しも多い。滑らかにわかりやすく語る話術には優れていても、そもそも競技に対する深い理解がなければ、実況の長丁場は続けられない。

 

自身はその競技の面白さのツボを押す引き出しは持たなくても、引き出しを持つ他者に頼れればいいけど、いつまでも他人に頼れる完成したシステムでもないと、結局は続かない。

 

完成したシステムには強制力があり、未完成で善意に頼るシステムには強制力がなくてより脆い。より強固なシステムめざして強制力を強めると、反発が強くなって善意はより細る。

 

ふと耳にした、遠い昔に授業で習ったというより覚えたことば。頻出ではないけれど、過半数以上の教科書に採択されていることばは、今さらであってもへぇという脳内ボタンを押しにくる。近代史のできごとが、現代まで続いてることに感心した。

 

教科書を読めないではなく、そもそも読んだこともない人に教科書を読んでもらおうと思ってもきっと無理。脳みそがごく柔らかい季節に猛勉強した、あるいは熱心に貪った事柄については、記憶の定着も著しい。

 

共和制と帝政と。後世の目から見ればコロコロと変わって覚えにくい政体も、その当時を変わる政体と共に生きざるを得なかった人にはもっと生々しく記憶されている。

 

生々しい記憶は主観によるもので、後世の目から見た客観的な視点とはまた別のもの。

 

コロコロと変わる政体が、結局はどういう理由でなされ、どのような影響があったかを客観的かつ俯瞰的に語って理解するには知識が必要で、客観的に語れる人はそもそも客観的に語る訓練を経た人。

 

解説されるまでもなく自身の中に競技に対する“見立て“がある人は、結局は客観的に語る訓練を経た人で、鍛錬された人は訓練を経てない未熟な見立てを嫌う。高齢化する社会は大量のマチュア、高度に訓練された人を大量に抱えた社会でもあって、高齢化するほどにアマチュアにも厳しくなる。

 

先生千人に対して生徒一人だと、永遠のインターミディエートという中途半端はやりにくい。千人の先生が一人の生徒に”我こそは師なり”と集中すると、あらゆる先生はイヤになってシャットダウンする。

これはフィクションですという根拠希薄な但し書き

八百屋お七といえば、家が火事になって焼け出され、避難先で出会って恋した僧侶にもう一度会いたいがために、今度は自身が放火犯となって処刑された人。らしい。

 

フィクションの題材としてお馴染みで、フィクションによって細部のバージョンは異なっている。実在した人物なのかどうか。今となってはその辺りも確かめようがないとか。フランス革命の舞台として著名なバスティーユ牢獄には、仮面をつけた囚人が居たらしい。という、実在したのかどうかも現在としては確かめようもない史実をもとに、鉄仮面という細部のバージョンが異なるフィクションが生まれた経緯となんだか似てる。

 

鉄仮面はともかく。

 

もう一度会いたいという自身の願望を満たす手段として放火に及ぶという行為は、恋に狂った女性が犯した愚かな罪として、女性を貶めるのにぴったりの逸話。その当時、貶めたいけど正面切って悪口を言えば罰せられる、八百屋出身あるいは八百屋とゆかりのある権力に連なる女性でも居たのかもね。

 

と思うのは、八百屋お七を有名にした浮世草子作者の生きた時代、寛文、寛永あたりを考えれば、何となくあぁと納得するものがあるから。正面切って悪口を言えば罰が待っているから、正面切って物申すのは御免被る。その代わり手練手管を尽くして権力者を愚弄する職業として、浮世草子作者はぴったりだもの。

 

これはフィクションですとの但し書きつきで、虚実入り混じって面白おかしく馬鹿にしながら、わかる人にはわかる人物を大勢で馬鹿にするのにもぴったり。虚実入り混じえて面白おかしくするのも手練手管を尽くすのもすべて、罰を逃れるため。

 

言い逃れしようもない証拠つきだったら、いくら手練手管を尽くして煙幕を張っても、無理無駄無用で罰が待っている。

 

江戸の昔にはなかったテクノロジーが現代にはあり、大勢で申し合わせて特定人物を貶めようとしても無理無駄無用で、大勢で申し合わせてくれると証拠もどっさり。

 

現代でも紙の新聞には小説がつきもので、その慣習もいかにも日本っぽい。

 

これはフィクションですとの但し書きつきで、虚実入り混じえて面白おかしく実在の人物、それも権力者や自分たちに敵対する人物を馬鹿にする手法を磨くのに欠かせないからで、馬鹿にできるのは気持ちの上で優位にあるから。

 

馬鹿にできないあるいはしなくなった時が、潮目の変わり時。

 

ところで鉄仮面という史実をもとにフィクションを書いた人のなかには、アレクサンドル・デュマもいる。文豪として有名だけど、彼の肖像画はつい最近まで見たことがなかった。

 

つい最近まで見たことがなかった彼の肖像画と、ほぼ同時代あるいは同ジャンルで活躍した文豪たちの肖像画が並んでいると、つい最近までデュマの肖像画を見たことがなかった理由もなんとなくあぁと納得する。

 

 

かつては肖像画、それから写真となって今なら動画。決定的な一枚は、千や万のことばを使わなくても、多くの人を納得させる。

 

現在はアレクサドル・デュマその人のものとされている肖像画が、実は別人のものだったらびっくり。決定的な一枚は多くの人を納得させる破壊力を持つだけに、そこに写っているのは本当に本人なのか????と、疑ってかかるのはフェイクが蔓延する時代のお作法さ。

あの時何を食べていたのか

あの時何を食べていたのか。今となってはまったく思い出せないけれど、買い出しに行った時に見た光景と、買いそびれたものについてはよく覚えてる。

 

ホワイトデーを意識して作ったに違いない、可愛らしい和菓子がショーウンドウを飾ってた。平時だったら衝動買いしそうなものは、非常時には後回し。お店がやってたのかどうかも、今となっては怪しいけどさ。

 

お腹は空くから、何かしら食べていた。ただ空腹を満たすため、エネルギーを摂るためだけの食事が続いたことは間違いない。

 

美味しいとかキレイとか可愛いとか。

 

いちいち感動できるのも、気持ちの余裕があってのこと。美味しそうも可愛いもキレイも寄せ付けないのなら、その人はまだその手のものを受け入れられるようにはなっていないってこと。

 

食料が必要になると思ったから、次の日に買い出しに行ったお店は、開店と同時に滑り込んだせいかいつもより空いていた。というより、ほとんどお客さんなんて居なかった。お店がやってるとも思われていなかったんじゃないだろうか。余震もそれなりにあったはずで、今となってはよく営業したよな。。と逆に感心する。

 

未曽有の事態はまさに未曽有だから、前例なんかない。

 

どうすべきかの模範解答も前例もない、未曽有の事態を前にするとだいたい処理能力がパンクして、思考は停止する。思考停止した人はとかく日常動作を繰り返しがちで、日常動作を繰り返しているうちに、落ち着きを取り戻す。

 

だからストップがかかるまでお店は営業しようとするし、電車やバスは走らせようとする。

 

お店を営業し、電車やバスを走らせることが二次被害に繋がる恐れがあると判断して、ストップをかけられるのは、その先を見通せる人。その先を見通して作ったマニュアルがあれば、思考停止したあとの人でも機械的に判断できる。先を見通せる人が作ったせっかくのマニュアルも、マニュアルが読めない人に運用されたら意味がない。

 

平時だったら衝動買いしそうなものは、非常時には後回し。非常時をより恐れる人は、非常時に役立つものを見掛けたら衝動買いする。キレイも可愛いも美味しいも封じられるとストレス源だとわかっていたら、非常時に備えて準備する。

 

温かい食べ物は、ただ温かいだけでも美味しく感じる。ありがたさもマシマシ。ただエネルギーを摂るため空腹を満たすための食事が続くと忘れてしまう、美味しいという感情も連れてくる。

変わらないのには訳がある

懐かしい街をストリートビューで眺めた時。時間が止まったように大して変わってなくて、逆にびっくりした。

 

きっとそれなりに変わっただろうという予想は、完全に裏切られた。高校生の頃、塾に行くために使っていたバス路線。そこからの眺めが、数十年経っても変わらないってどうゆうことさ?世界に発信される、超メジャー級な観光名所からも徒歩圏。国際観光地化したんじゃないのか???と謎は深まるばかり。

 

ただでさえ伝統がずっしりどっしりと腰を据えた街。ちょっとやそっとでは変わらないところに、恐らくは高齢化でどのお店も人も長寿になったせいか、新陳代謝の勢いがかつてよりも一層鈍くなったよう。

 

新陳代謝の勢いが鈍化して、勢いを失くしたまま細く長くが続くと、いつまで経っても変わらない街並みが現れる。懐かしい景色は都市インフラが凍結したままの姿でもあって、長生き相応に個々人や個々の店舗の権利意識が高まると、再開発もままならない。

 

とにもかくにも現在食べていける状態だと、将来はより資産価値が増すに決まってる不動産は、手放さない。一攫千金あるいは一発逆転を夢見る人ほど、唯一の財産は容易に手放さない。持っていたところでしょうがないでしょと割り切れるのは、すでに代わりを手にしてる人だけ。

 

昔から街だった場所には、そもそもまとまった空き地なんて残されてない。

 

びっしりと個人の住宅や個人経営の店舗が建ち並んだ街は、権利意識の塊。この権利意識の塊の意識改革にかかる費用と手間を考えたら、効率と成果を重視する人ほど他の場所をめざす。

 

それなりの費用と時間をかけても口説き落せたのはたったの数軒で、しかもそれぞれが飛び地でまとまった大きさのあるホテルやその他施設が建てられなかったら、結局は敗北。

 

歴史と歴史相応に権利意識の高まった街で、街づくりほど面倒で手間がかかるわりに実りの少ないことはなし。短期間で見違えるようになった街があれば、偶然ではなく意思の賜物で、見違えるような効果が目に見えて現れるのは、そもそも手つかずの場所。そもそも昔から街だった場所でまとまった空き地が現れたら、それも誰かの意思。

 

その場所の価値は、一にも二にも立地。

 

中心地に近くて便利という不動産上の価値をわざと貶め、容易に再開発もグローバル化もさせないのも、そもそもが権利意識の塊をその地に残すためだった。と、考えると納得する場所は、探せば意外とある。

 

権利意識の塊のような人は、類は友を呼んでやっぱり権利意識に敏感な人と仲よくなりがち、握手しがちで、いつまで経っても再開発もグローバル化もできない場所がまたひとつ生まれる。

 

いつまで経っても再開発もグローバル化もできない。そもそも中心地に近くて便利な場所で、ナショナリズムに火を付けて回るような人がもしいたら、案外ナショナリズムとは最も遠い人だった。なんてこともあるかも。かもかも。

 

今の世の中で、忘れられゆく個人の権利意識を叫べば叫ぶほど優遇される場所はどこかと考えたら、個人をエンパワーメントすることで大きくなったグローバル企業の方だから。

 

従順ではなかったから権利意識が高まったその場所で、なぜ今さらかつては反抗していたものに従順になるのか。逆回転じゃん。逆回転だから、逆に回転することで得する人は誰かと考えたら、そっちの方。

 

ローカルな資産を生かしてグローバル化を果たした街と、個人をエンパワーメントすることで大きくなったグローバル企業と。どっちの方が街づくりでできる子か。代理戦争するなら、ピコピコゲームの前だけでやってりゃいいんだよ。

現代では決して蘇らないもの

騎士も武士も、現代では決して蘇らない階級だから、安心して美化できる。

 
騎士道や武士道を美しく、あるいは心地よく謳い上げて心地よくなれるのも、現代においては完全無欠のフィクションだから。主君や愛を捧げた相手のために殉じる。あるいは騎士道を体現した人物に対し、理想として憧れたあなたにどうして剣を向けることができましょうと、主君の命に背いて剣をおさめる。
 
そんなことは現代ではありえないから、絵に描いた餅として現実以上に美しく描かれる。
 
現代で言えば、例えば警察に医師に弁護士。武力や武力に等しい専門知識を有している彼らは、現代における騎士階級で武士階級にも等しい存在。武力や武力に等しい専門知識プラス、高い倫理性も期待されるから、騎士道や武士道を重ねやすい存在。
 
高い倫理性を期待されるけれど、警察に医師に弁護士を主人公としたドラマやフィクション作品のように、誰もがヒーロー・ヒロインのようであるわけがない。単なる職業なんだから。単なる職業なんだから、ピンキリ。どうしようもない人もいれば、素晴らしい人もいる。
 
警察に医師に弁護士は、現代でも決して誰もがなれる職業ではないけれど、なれる程度に優秀な人が、必ずめざす職業でもなくなっている。
 
武力や武力に等しい専門知識を持ちながら、時には窮屈な高い倫理性を期待されることもなく、それでいて給与水準は見劣りしない他の職業があれば、そっちの方が魅力的に映ることもある。
 
例えば身近な人間が、つねに高い倫理性を求められて窮屈かつ損な役回りを押し付けられる姿を、目の当たりにするばかりだったらそうなってもしょうがない。
 
自分にはできないことを、他人に求めて気持ちよくなる姿は、現代では決して蘇らない騎士道や武士道に酔いしれる姿とよく似てる。現実から目を背けるかのように、ことさら美化されたフィクションに酔いしれる姿とよく似てる。
 
騎士道を体現した人物に対し、理想として憧れたあなたにどうして剣を向けることができましょうと、主君の命に背いて剣をおさめるような人が次々に現われたら組織は崩壊する。
 
これも年金支給までの辛抱さと、騎士道や武士道を捧げようのない、魅力に欠ける主君を戴きながら長い長い道のりを歩いていく人には、騎士道や武士道を体現した理想像なんて毒でしかない。
 
毒でしかないから、理想を体現した人物は徹底的に貶めるのが、騎士道とも武士道とも別の道を行く人の生きる道。
 
求めているのは、騎士道や武士道を捧げるに値する人物だけ。という人たちは、理想あるいは実現したい未来像がより強固で明確で、自分たちの理想に合わなくなれば、主君の首だってすげ替える。
 
理想の主君像が明確で、教師役になれる。この先どうなるか、あるいはどうしたいのかの先の見通しも確固としていて、計画を実行に移す力も影響力も持っている。
 
そんな人たちは、見方を変えれば危険人物で危険な集団で、青年将校による憂国から生まれたクーデターって、だいたいそんなもんよな。ピュアで世間知らずなだけに、憂国という美しいキラーフレーズに弱いんだ。
 
同情するなら金持って来いで、ピュアな気持ちで何かを憂いていたはずが、いつの間にかよくわからない胡散臭い集団の金集めに利用されるととっても現代的で、流行の先端っぽい。特殊詐欺、流行りだもんねー。