クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

インターミディエート

現在の気温は1℃。ぐずついた空から霧雨のような雨が降り始め、雨は雪に変わって傘が必要なほどの名残雪が激しく降ったあと、小止みになってきた。

 

東京の最高気温は20℃にはなるそうで、温かくて羨ましいと思うと同時に、花粉のシャワーもふんだんかと思うとゾッとする。花粉のシャワーより名残雪の方がはるかにマシで、アレルゲンと切り離された生活は快適。

 

例えば陸上競技。ただ走ってるだけじゃんというマラソンや駅伝を、競技関係者以外も楽しくそれなりに緊張感を伴って眺められるのは、多分に実況の力。実況のアナウンスもなく、音を消した画面だけでも競技を楽しめる人は、解説されるまでもなく自身の中に競技に対する“見立て“がある人。見立てを邪魔する、あるいは別の見立てを大声で吹聴する実況は、だから邪魔者。

 

邪魔だから、競技に対する自身の見立てを至上と考える人は、他者の考えを受け入れない。受け入れたくないから消音モードにして、他者の見立てをシャットダウンする。

 

実況なしでも競技を楽しめる人は、競技に対する知識が豊富で、面白さのツボを押す引き出しも多い。滑らかにわかりやすく語る話術には優れていても、そもそも競技に対する深い理解がなければ、実況の長丁場は続けられない。

 

自身はその競技の面白さのツボを押す引き出しは持たなくても、引き出しを持つ他者に頼れればいいけど、いつまでも他人に頼れる完成したシステムでもないと、結局は続かない。

 

完成したシステムには強制力があり、未完成で善意に頼るシステムには強制力がなくてより脆い。より強固なシステムめざして強制力を強めると、反発が強くなって善意はより細る。

 

ふと耳にした、遠い昔に授業で習ったというより覚えたことば。頻出ではないけれど、過半数以上の教科書に採択されていることばは、今さらであってもへぇという脳内ボタンを押しにくる。近代史のできごとが、現代まで続いてることに感心した。

 

教科書を読めないではなく、そもそも読んだこともない人に教科書を読んでもらおうと思ってもきっと無理。脳みそがごく柔らかい季節に猛勉強した、あるいは熱心に貪った事柄については、記憶の定着も著しい。

 

共和制と帝政と。後世の目から見ればコロコロと変わって覚えにくい政体も、その当時を変わる政体と共に生きざるを得なかった人にはもっと生々しく記憶されている。

 

生々しい記憶は主観によるもので、後世の目から見た客観的な視点とはまた別のもの。

 

コロコロと変わる政体が、結局はどういう理由でなされ、どのような影響があったかを客観的かつ俯瞰的に語って理解するには知識が必要で、客観的に語れる人はそもそも客観的に語る訓練を経た人。

 

解説されるまでもなく自身の中に競技に対する“見立て“がある人は、結局は客観的に語る訓練を経た人で、鍛錬された人は訓練を経てない未熟な見立てを嫌う。高齢化する社会は大量のマチュア、高度に訓練された人を大量に抱えた社会でもあって、高齢化するほどにアマチュアにも厳しくなる。

 

先生千人に対して生徒一人だと、永遠のインターミディエートという中途半端はやりにくい。千人の先生が一人の生徒に”我こそは師なり”と集中すると、あらゆる先生はイヤになってシャットダウンする。