クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

変わらないのには訳がある

懐かしい街をストリートビューで眺めた時。時間が止まったように大して変わってなくて、逆にびっくりした。

 

きっとそれなりに変わっただろうという予想は、完全に裏切られた。高校生の頃、塾に行くために使っていたバス路線。そこからの眺めが、数十年経っても変わらないってどうゆうことさ?世界に発信される、超メジャー級な観光名所からも徒歩圏。国際観光地化したんじゃないのか???と謎は深まるばかり。

 

ただでさえ伝統がずっしりどっしりと腰を据えた街。ちょっとやそっとでは変わらないところに、恐らくは高齢化でどのお店も人も長寿になったせいか、新陳代謝の勢いがかつてよりも一層鈍くなったよう。

 

新陳代謝の勢いが鈍化して、勢いを失くしたまま細く長くが続くと、いつまで経っても変わらない街並みが現れる。懐かしい景色は都市インフラが凍結したままの姿でもあって、長生き相応に個々人や個々の店舗の権利意識が高まると、再開発もままならない。

 

とにもかくにも現在食べていける状態だと、将来はより資産価値が増すに決まってる不動産は、手放さない。一攫千金あるいは一発逆転を夢見る人ほど、唯一の財産は容易に手放さない。持っていたところでしょうがないでしょと割り切れるのは、すでに代わりを手にしてる人だけ。

 

昔から街だった場所には、そもそもまとまった空き地なんて残されてない。

 

びっしりと個人の住宅や個人経営の店舗が建ち並んだ街は、権利意識の塊。この権利意識の塊の意識改革にかかる費用と手間を考えたら、効率と成果を重視する人ほど他の場所をめざす。

 

それなりの費用と時間をかけても口説き落せたのはたったの数軒で、しかもそれぞれが飛び地でまとまった大きさのあるホテルやその他施設が建てられなかったら、結局は敗北。

 

歴史と歴史相応に権利意識の高まった街で、街づくりほど面倒で手間がかかるわりに実りの少ないことはなし。短期間で見違えるようになった街があれば、偶然ではなく意思の賜物で、見違えるような効果が目に見えて現れるのは、そもそも手つかずの場所。そもそも昔から街だった場所でまとまった空き地が現れたら、それも誰かの意思。

 

その場所の価値は、一にも二にも立地。

 

中心地に近くて便利という不動産上の価値をわざと貶め、容易に再開発もグローバル化もさせないのも、そもそもが権利意識の塊をその地に残すためだった。と、考えると納得する場所は、探せば意外とある。

 

権利意識の塊のような人は、類は友を呼んでやっぱり権利意識に敏感な人と仲よくなりがち、握手しがちで、いつまで経っても再開発もグローバル化もできない場所がまたひとつ生まれる。

 

いつまで経っても再開発もグローバル化もできない。そもそも中心地に近くて便利な場所で、ナショナリズムに火を付けて回るような人がもしいたら、案外ナショナリズムとは最も遠い人だった。なんてこともあるかも。かもかも。

 

今の世の中で、忘れられゆく個人の権利意識を叫べば叫ぶほど優遇される場所はどこかと考えたら、個人をエンパワーメントすることで大きくなったグローバル企業の方だから。

 

従順ではなかったから権利意識が高まったその場所で、なぜ今さらかつては反抗していたものに従順になるのか。逆回転じゃん。逆回転だから、逆に回転することで得する人は誰かと考えたら、そっちの方。

 

ローカルな資産を生かしてグローバル化を果たした街と、個人をエンパワーメントすることで大きくなったグローバル企業と。どっちの方が街づくりでできる子か。代理戦争するなら、ピコピコゲームの前だけでやってりゃいいんだよ。