八百屋お七といえば、家が火事になって焼け出され、避難先で出会って恋した僧侶にもう一度会いたいがために、今度は自身が放火犯となって処刑された人。らしい。
フィクションの題材としてお馴染みで、フィクションによって細部のバージョンは異なっている。実在した人物なのかどうか。今となってはその辺りも確かめようがないとか。フランス革命の舞台として著名なバスティーユ牢獄には、仮面をつけた囚人が居たらしい。という、実在したのかどうかも現在としては確かめようもない史実をもとに、鉄仮面という細部のバージョンが異なるフィクションが生まれた経緯となんだか似てる。
鉄仮面はともかく。
もう一度会いたいという自身の願望を満たす手段として放火に及ぶという行為は、恋に狂った女性が犯した愚かな罪として、女性を貶めるのにぴったりの逸話。その当時、貶めたいけど正面切って悪口を言えば罰せられる、八百屋出身あるいは八百屋とゆかりのある権力に連なる女性でも居たのかもね。
と思うのは、八百屋お七を有名にした浮世草子作者の生きた時代、寛文、寛永あたりを考えれば、何となくあぁと納得するものがあるから。正面切って悪口を言えば罰が待っているから、正面切って物申すのは御免被る。その代わり手練手管を尽くして権力者を愚弄する職業として、浮世草子作者はぴったりだもの。
これはフィクションですとの但し書きつきで、虚実入り混じって面白おかしく馬鹿にしながら、わかる人にはわかる人物を大勢で馬鹿にするのにもぴったり。虚実入り混じえて面白おかしくするのも手練手管を尽くすのもすべて、罰を逃れるため。
言い逃れしようもない証拠つきだったら、いくら手練手管を尽くして煙幕を張っても、無理無駄無用で罰が待っている。
江戸の昔にはなかったテクノロジーが現代にはあり、大勢で申し合わせて特定人物を貶めようとしても無理無駄無用で、大勢で申し合わせてくれると証拠もどっさり。
現代でも紙の新聞には小説がつきもので、その慣習もいかにも日本っぽい。
これはフィクションですとの但し書きつきで、虚実入り混じえて面白おかしく実在の人物、それも権力者や自分たちに敵対する人物を馬鹿にする手法を磨くのに欠かせないからで、馬鹿にできるのは気持ちの上で優位にあるから。
馬鹿にできないあるいはしなくなった時が、潮目の変わり時。
ところで鉄仮面という史実をもとにフィクションを書いた人のなかには、アレクサンドル・デュマもいる。文豪として有名だけど、彼の肖像画はつい最近まで見たことがなかった。
つい最近まで見たことがなかった彼の肖像画と、ほぼ同時代あるいは同ジャンルで活躍した文豪たちの肖像画が並んでいると、つい最近までデュマの肖像画を見たことがなかった理由もなんとなくあぁと納得する。
かつては肖像画、それから写真となって今なら動画。決定的な一枚は、千や万のことばを使わなくても、多くの人を納得させる。
現在はアレクサドル・デュマその人のものとされている肖像画が、実は別人のものだったらびっくり。決定的な一枚は多くの人を納得させる破壊力を持つだけに、そこに写っているのは本当に本人なのか????と、疑ってかかるのはフェイクが蔓延する時代のお作法さ。