クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

このペンを僕に売ってください

そんな内容とは夢にも思わず見てみたところ、下品な描写の連続でびっくりした、ディカプリオ主演のお金に踊るアホウを描いた『ウルフ・オブ・ウォールストリート』。

 

大した学歴や職歴があるわけでもなかった人達が、ちょっとニッチな市場を見つけ、そこに殺到してあぶく金を掴んで踊る。そのさまが、ただひたすら下品で顎が外れそうで、それなのに3時間近くもあった。3時間を費やしても、その馬鹿馬鹿しさを伝えようとした執念と、馬鹿馬鹿しさを伝えることでしか伝わらないものの存在に恐れ入った。

 

キリスト教世界では、金融業は低く見られがちだったとか。真偽は知らね。知らないけど、必然性のある金融取引ならともかく、暴利をむさぼりむさぼった暴利でどんちゃん騒ぎしかやることがなかったら、そりゃ低く見られてもしょうがない。

 

映画のなかで描かれていたのは、そもそも尊敬されようもないお仕事に、尊敬されようもない人たちが夢中になる姿。コメディを装っているけど、そこにあるのは紛れもない悪意。お前らは、こんなものでも有難がっておけという底意地の悪さ。

 

コンプレックスは、頭を下げなきゃいけない人に対して持つもの。

 

低く見られがちな職業には、差別されがちな人たちが流れ込みがち。差別されがちな人たちにも金銭できっちり報いる側面があるから一定の支持があり、一定の支持が、成長や成功を呼ぶこともある。

 

めちゃめちゃやった、やり尽くしたディカプリオが最後は感じのいい人になって、見ようによっては自己啓発セミナーにも見えるような場で講師役を務めるところで映画は終わってた。

 

「このペンを僕に売り込んでください」と、セミナーに参加した聴衆に彼は語りかける。

 

ペンは剣より強しというけれど。めちゃめちゃやった、やり尽くしたあとの人たちが、他に売るものがなくなって、あるいは儲けやすそうという理由だけでペンを売り込んでるとしたら、そのペンで書かれたものは果たしてどこまで信頼できるのか。

 

ラストシーンに敢えて寓意を見出せば、考えたのはそんなこと。口八丁手八丁で、本来は価値のないものに高値をつけて売り抜ける行為を繰り返してた。だったら、売るものあるいは扱うものをペンに持ち替えて、さほど価値がないものももっと価値があるように見せることもできるでしょ。と、言わんばかり。

 

売られてるものに対して、買う気が失せる。そもそも買う気もなければ、買うものでもないものの方が信頼できるような気がしてくる魔法かな。

 

何を言ったかより誰が言ったかを大事にするのか。それとも、何が言ったかを大事にするのか。誰が何を言っても信頼せずできず、すべてを自分の目で見て確かめるのなら、原始時代に逆戻りで、原始人ほど、ウッキウキ。

舐めたらあかん

なめた真似をすればすかさず鞭が振り下ろされるのは、飴舐めた人。

 

舐めるには辛苦を経験するという意味もあり、なめるは無礼が動詞化したもので、相手を侮ること。飴と鞭は弾圧と譲歩でビスマルク。とはいえ敢えて曲解すれば、飴のように、つまりおやつやお菓子代わりに辛苦をつまんでもてあそんでみた人に、鞭が振り下ろされ弾圧されるのは、感情的には納得しかないわな。

 

目には目を、歯には歯をだったらハンムラビ法典で、より古代に近くなる。譲歩がないからイメージも膨らまず、言葉遊びにも苦労する。

 

飴と鞭だけだったら固定してゆるがないイメージに、ほんのちょっと揺らぎある、複数の解釈も可能になる何かを足してやると、固定していたはずのイメージも揺らぎ、もともとあった意味も薄れていく。

 

固定していたイメージをわざと崩すために、揺らぎある何かに足してる場合もあるんだけどさ。

 

もともとあった固定した意味が、簡単に揺らぐのは検索のせい。プラスのイメージがあったものにマイナスのイメージを重ねる。あるいはマイナスのイメージしかなかったものにプラスのイメージを重ねたかったら、検索結果をいじると手っ取り早いから。

 

簡単にはいじられないよう、検索結果をコントロールしたかったらぶっとい札束持ってこいだと、札束が飛び交う戦場になる。札束が飛び交う戦場なんだという先入観で検索結果を眺めるのか、それともなのかで結果の受け止め方も変わってくる。

 

ワード単体ではさほど価値のないものは野放しで、野放しだから好き勝手に遊びたい人が勝手に遊んでる。

 

遊ぶ余地があってよかったねと見るべきか、それともコモンセンスに欠ける場だねと呆れるべきか。遊ぶなら他のもので遊べばいいのに、何やってんだかと呆れるべきか。

 

自分たちの器以上のリーダーは持てないを実感するのは、そんな時。社会や世の中をきっちり映し出している。理想主義者以外にも開かれていたら、理想郷が理想郷でなくなるのもあっという間。

欲望との向き合い方

ひと握りの大富豪が、世界の富の過半を握ってる。とか聞くけどさ。

 

庶民が目にする、あるいは庶民の目にさえ晒される大富豪の見た目は質素。TPOをわきまえて、ビジネスシーンでは敢えてそうしてるとも言えるけど、彼らよりも見た目がゴージャスな庶民はそこらにいっぱいいる。

 

上から下までブランド品、あるいは高級品で身を固めて移動する姿は歩く広告塔。身に着けた品そのものよりも、おしゃれを楽しむ姿勢の広告塔。

 

欲しいものはもう何でも持っている、庶民の目にさえ晒される大富豪は、おしゃれを楽しむ姿勢の広告塔になる必要はなく、広告する、モデルケースとなるならきっと別のもの。

 

欲しいものはその気になったら大体何でも手に入る、満たされた人は基本欲望が少ない。

 

欲望が少ないのは、満たされた人が多い証拠でいいことでじゃん。と、一概には言えないのは、欲望の火付け役や欲望によって潤う業界があがったりになるから。東京以北で最大の歓楽街から、欲望が消えたらその景色はきっとずいぶん違うものになる。

 

札幌駅という玄関口からすすきのまでは、距離にすればたったの3キロ程度。どのあたりまでをすすきのと呼ぶのかという解釈によって、距離感もまた変わってくるけれど、基本的にはめっちゃ街なか。

 

ところで、忙しくなると移動時間は惜しくなる。長い移動時間が惜しくなるから、中心部への回帰が進み、マンションなどの集合住宅が無秩序に林立する。それもこれも自由になる土地が少ないからで、土地が少ないと上に伸びるしかなくなる。

 

地面はあっても、それは別の人の土地。わがものではないから、北海道はでっかいどうのはずなのにあんまり雄大さを感じさせない、集合住宅が林立するミニミニ摩天楼な景観が出現して、ミニミニ摩天楼な景色である限り、どこまでいってもここはアジアの一部とその景観が物語ってる。

 

迷惑施設は、自分ちの自宅近くには建てないもの。

 

一般的には迷惑施設なんだけど、欲望をお金に変える金の卵マシーンは、葉っぱを隠すなら森の中で、よそんちの人の近くの金の卵マシーンが集まる場所に置いておけば目立たない。

 

自分がオーナーだとバレると都合が悪かったら、ダミーのオーナーを立てておけばいいだけ。

 

欲望に火を付ける街があることで、どこの誰ともわからない人のフトコロを潤し、どこの馬の骨ともわからない人もいずれは紳士・淑女なニューリッチになる。そういう苦々しい思いを、欲望に火を付けるツアーで国際的に有名になったアジアの歓楽街周辺も、かつては引き受けてきた歴史を思えば、やっぱりどこまでいってもそこはアジアの一部。

 

大富豪よりもお金かかってそうな出で立ちで、その辺を歩いてる人は欲望に忠実な人。欲望に忠実だから局所における経済を回すエンジンとなって、局所からは歓迎される。

 

長い移動時間が惜しいから、できれば職住近接で何があっても職場に駆け付けられる距離に住みたい人、いっぱい居るのにね。東京以北で最大の歓楽街から欲望が消えたら、次に現れるのは緑豊かな公園にも近い計画都市。だったら、ちょっと欧米っぽい。

 

分断社会といえば、持てる者と持たざる者と単純に二分されがち。だけど、緑豊かな公園でのんびりしたい・できる人と、緑豊かな公園では決してのんびりできないししない人との間にある分断も相当なもの。

 

お金のあるなしでは埋められない分断の方が、よっぽど深刻さ。

へそまがり

かつての新聞は、インテリが作ってヤクザが売ると言われたように、時に強引な新聞セールスが嫌われていた。

 

読め読め、買え買えと強引に勧誘されたら誰だってイヤになる。豪華な景品で釣ってみたり、売る方にも工夫があったけれど、豪華な景品で釣れるのは景品目当てで契約と解約を繰り返す、ロイヤルティの低い顧客だけ。

 

いいものを作っていても、読まれなきゃしょうがない。だから強引な売り方になって、押しつけがましいことや強引なことは基本インテリとは相性が悪いから、結果的にインテリジェンスに欠ける売り方になったのが、かつての強引な新聞セールス。適材適所という言い方もあるけれど。

 

作る方だけでなく、売る方にもインテリジェンスが必要となった近頃では、強面は通用しない。強面が重宝されるケースも、あるっちゃあるんだけどさ。売る際の作法と作る際の作法と。どちらがより複雑になったのかと言えば、売る方かも。

 

売るに売れないものを、売ってこいと言われる方がより難しい。

 

積み上がる在庫はひとまず視界から追いやって。とにかく売り物を作るだけの方が、売るに売れないものを抱え込むより精神的負担は軽く見える。見えるだけで、実際はどうか知らないけれど。

 

強面が通用する範囲が狭くなっちゃったから、今となってはヤクザが作ってインテリが売った方が、もしかしたら効率がいいのかも。インテリではなく強面で生きてきた。くらいの意味でヤクザと使ってるんだけどさ。

 

インテリではなく強面で生きてきた人が作ったものを、インテリが売りたいかどうかはまた別の問題。単なる発想の逆転で、現実には意思のある人間を、チェスの駒のように扱ってもうまくいきっこない。

 

うまくいくわけないのにチェスの駒のように扱いたがる人は、自身にこれは単なる実験だと言い聞かせてるだけかも。実験と思えば、失敗にもめげない。本当は生身の人間をチェスの駒のように扱ったばかりに、深刻な事態を引き起こしたのだとしてもさ。

知らなくて当たり前

織田信長でまず思い出すのは、美濃の斎藤道三の娘が妻で、お市の方が妹だということ。ついでに森蘭丸なんてのもあったね。本能寺の変なんて、知ってて当たり前でしょ。縁戚や人間関係といったこの種の雑学は、多分テストではあんまり重要視されないこと。

 

重要視されない事柄の方がお馴染みなのは、フィクションで面白おかしく取り上げられる回数が多いから。教科書よりもフィクションの方により馴染みが深いと、面白おかしく取り上げられる事柄にばかり詳しくなって、教科書的な事柄には疎くなる。

 

楽市楽座の創設に、僧兵焼き討ち。京都に入って天下人となった織田信長の名は、イエズス会士という日本に居住する外国人を通じて世界、というより西欧キリスト教国に伝えられたとか。京都に入って天下人となった、なんて当時はどう翻訳したのか。

 

天下統一ということばは、わかりやすくてわかりにくい。

 

天下を取った状態って何さ???と、突き詰めて考えるほどにわからない。同じ文化を共有していれば、単に天下を取ったで通じるものも、違う文化では通じない。

 

宮廷あるいは朝廷が存在するのに、戦国大名による天下統一とはどういうことなのか。と考え出したら、宮廷あるいは朝廷は、西洋社会における教皇庁のようなものと考えれば通じやすい。だったら、彼ら宮廷あるいは朝廷が庇護する宗教って何なのさ???と次に考え出すと、仏教と神道との関係を説明するのにひと苦労。

 

一神教しか知らない人に、神様は神様、仏様は仏様として贔屓にする態度をわかってもらうのは難しい。難しいから焼き払い、外国人にもわかりやすいようにしたと考えるのは乱暴だけど、維新後の廃仏毀釈だって、説明するのが難しいものをわかりやすくする作業と思えばより理解しやすくなる。

 

説明するのが難しくて面倒くさいから、異なる文化の外国人、それも主に富や先端技術を運んでくる外国人目線に合わせて解体するのも、きっとお家芸で伝統芸のひとつ。

 

富や先端技術を運んでくるのが、似た文化の延長線上という世界だったら、説明するのが面倒くさくて難しかったからという理由での乱暴な解体は、減るのかどうなのか。解体されずに温存されたままになると、よりワールドワイドな理解からは遠くなり、世界標準で見たら摩訶不思議。なんてことになるかもね。

 

戦国時代のイエズス会士は、行ってみればジャーナリストのようなもの。当時学のある人間と言えば、まずは宗教界だったから。ほんとかどうか知らないけど、宗教界では金融業は、あまり好ましく思われてなかったとか。

 

そのせいかどうなのか。お金まわりという、それいっちゃん大事なやつやんという大事な部分には触れずあるいはさわれずで、お金まわりをすっ飛ばすと、だいたい物事は表層をなぞるだけになりがち。

歴史から消えた、稀有なもの

権力の空白地帯でもない場所、権力がきっちり目を光らせているお膝元に出現する、巨大あるいは広大な建築物は、権威や権力の証。

 

そもそも権力と分かちがたく結びついているから、巨大あるいは広大な建築物ができあがる。

 

Googleさんに何気なく、特にテクニックを駆使するでもなく聞いてみた検索ワード。検索結果が、いちぶの隙もないほど“クリーン“な検索結果に埋め尽くされていると、あぁこのワードは”権威の監視下“にあるのねとすぐわかる。ネガティブな情報は、テクニックを駆使しない限り、きっと見つからない。

 

今となっては権力と分かちがたく結びついているようには見えないのに、権力のお膝元に出現する巨大な建築物は、かつては権力と分かちがたく結びついていた証拠。例えば、テンプル騎士団

 

日本人でも知ってるパリのマレ地区(オシャレなお店が多いエリアとしてよく紹介されてる)からも徒歩圏。今ではカルチャーセンターと広場くらいしか残ってない地下鉄タンプル駅のすぐそばには、テンプル騎士団のパリ支部が置かれ、かつてはパリで一番目立つ建物だったとか。

 

12世紀頃、中世ヨーロッパのお話で、その頃の日本と言えば平安時代末期で鎌倉幕府が成立する前。国に対する民衆の意識や、国そのもののあり方が現在とは大いに異なっていた頃のお話。国よりも、宗教的権威が強かった。

 

聖ヨハネ騎士団に引き継がれ、その後も所有者を変えたテンプル騎士団パリ支部だった建物は、結局1853年ペリーの黒船来航の年、ナポレオン3世の治世下でパリ万博開催前に取り壊される。

 

テンプル騎士団といえば今では“とんでも系のキワモノっぽい”扱いで、歴史に果たした役割よりも、その滅亡後に生まれた埋蔵金伝説やあるいは秘密結社の源流のような扱われ方の方が名高い。

 

伝説や風説が生まれるのは、その名に利用価値があるから。

 

徳川埋蔵金伝説が生まれたのも、あれほどの権威や権力を誇った政権だったら、埋蔵金のひとつやふたつを残していてもおかしくないという無邪気な願望の裏返し。徳川幕府の最後がよく知られているように、テンプル騎士団の最後も記録に残ってる。その遺産がどこに譲られたのかも明らかで、明らかなのに伝説が生まれるのは、事実については知る人ぞ知るだから。

 

では、テンプル騎士団の事実って一体何さ???と、テンプル騎士団について書かれたものを読むと、浮かび上がるのは国境を超えて活動する、金融資本家という姿。

 

実体は金融資本家で実業家、看板は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦士たち」で、看板違いもはなはだしい。聖地奪還をめざして設立された騎士団が、時代の要請に応えているうちにその実体を変え、国家を超える超国家的存在としてヨーロッパに君臨して滅んだ。というより滅ぼされた。あら、ドラマチック。

 

滅ぼし弾圧したのはフランスの“端麗王”フィリップ4世で、世界史的にはアヴィニョンの捕囚で知られている。アヴィニョンの捕囚が世界史的トピックスなのは、以後ローマ教皇という宗教的権威が、フランス王の支配下に置かれたから。つまり、宗教的権威より国家が上位に立ったから。

 

聖地奪還をめざし、宗教的権威が各国国家を動かし出兵させた栄光も、今は昔。世界史を動かすキーマンの変更だから世界史的トピックスで、金融家あるいは実業家として黒子の存在だったテンプル騎士団は、悲しいことに華々しく世界史的トピックスを飾ることはなかった。

 

誰それにお金貸した。あるいはどこそこに所領を持っていた。あるいは所属した騎士名や、その組織については記録があるから伝わってるんだけどさ。

 

クレジットカードのない時代。王侯貴族が王侯貴族らしい旅、つまりみすぼらしく変装することもなく、生活水準を落とさず国境を超えて旅をしようとすると、馬鹿げたお金がかかった。

 

データでもデジタルでもないお金は、何しろ重くてかさばり、その保管にも気を遣う。途中で盗賊にでも襲われたら、ひとたまりもない。なのに向かうのは紛争地帯だった十字軍の時代に、重くてかさばるお金を融通してくれるテンプル騎士団の存在は便利だった。

 

現地通貨との交換比率は公明正大で、納得のいく手数料しか取らず、取引を重ねるほどに相手の懐具合や返済能力にも詳しくなり、時には融資を見送ることもあったと聞けば、これはもう金融機関以外のなにものでもない。

 

東インド会社のように、需要があるのに誰もそこには手を出せなかった分野の先にはブルーオーシャンテンプル騎士団がその存在感を増したのは、十字軍遠征という未開の地での戦争という条件があってこそ。未開の地での戦費調達、それも損をさせずに公明正大という分野には商機があり、現代の暗号通貨にも通じてる。

 

知る人しか知らないウエスタン・ユニオンも、結局はその分野での勝ち組。

 

移動もしない、安定した生活では見えてこない十字軍遠征という市場をテンプル騎士団が押さえ、市場がシュリンクするとともにその役割を終えた。

 

十字軍遠征のメリットのひとつが、東方からの進んだ技術や稀覯品の収集で、進んだ技術や持ち込んだ贅沢品のおかげでイギリスやフランスはより豊かになり、国としての体裁を整える原資となった。国としての体裁が整ったから、ローマ教皇庁にもNOを突き付けられた。

 

イギリスにフランス。戦費調達という黒子役として時には彼らを支えたテンプル騎士団が、持ちつ持たれつだったフランスによって、結局は消滅させられその財産も没収された。

 

フィリップ4世が、濡れ衣あるいはいいがかりをつけてテンプル騎士団員主要メンバーの逮捕に踏み切り、騎士団のパリ本部に踏み込んだ際に証文も破った。というエピソードは、世界史を動かすのは徹頭徹尾お金だったという事実を補強するのにも、とってもお役立ち。

 

そもそもが封建軍には真似できない、機動性の高い常備軍を備えたことで軍功をあげ、あげた軍功がお金を呼んでお金が舞い込み金融家あるいは実業家への道を歩み始めた。と考えれば、彼らテンプル騎士団は、強くならないと見えない世界を徹頭徹尾攻めたとも言える。

 

稼ぐ力のある人は、狙われる。お金は使えばなくなってしまうけれど、稼ぐ力のある人は常に金の卵を生み続ける。金の卵を産む場所は、どこでもいい。

 

主義に殉じたり国に殉じたりする人は、殉じることでお金を稼いできた人。火刑に処されたテンプル騎士団最後の総長ジャック・ドゥ・モレーともう一人は、彼らを解散に追い込んだ教皇クレメンス五世とフランス王フィリップ4世を呪う。

 

呪いが成就するかのように、教皇もフランス王もほどなくして亡くなってしまうけれど、国を豊かにできない統治者が永らえることはできなかったと考えれば納得さ。

 

稼ぐ力のあったテンプル騎士団員は、主義にも国にも殉じず、各地に散った。

 

ちょっと想像力をたくましくすれば、持てるネットワークを武力や資金源に変え、大きくなってきたテンプル騎士団が、自分達に対する迫害や弾圧に気付かなかったはずがない。主義にも国にも殉じる必要がない騎士団の心臓は、目立たないように先に逃したと考える方が、与太話としてはよりロマンチック。

 

お金に殉じる人はお金に殉じ、騎士道に殉じる人は騎士道に殉じた。

 

人道を支える黒子役で、超国家的な支援組織という理念は、殉じさせるわけにはいかないから未来に残した。と、考えたがる人が多いから、形を変えて彼らが生き残ったという陰謀論や我こそは後継なりという偽物も出現する。

 

白い背景に赤い十字というテンプル騎士団の紋章は、赤十字にそっくりね。

 

テンプル騎士団は形あるものは何も残さなかったけれど、その組織のあり方や理念は、そうありたいと願った組織や人にDNAとして受け継がれ、DNAとして受け継がれたあとは、敢えて今さらその名を出す必要もない。

 

かつては確かに存在した、稀有で大きな存在を名乗り、語り騙りたがる人は偽物さ。

ことだま

環境が悪化した地球に見切りをつけ、大富豪が宇宙めざして宇宙開発を進めた結果、地球はとり残された人々の星になるが現実化したら、まんまよくあるSFの後追い。

 

よくあるということはそれだけ言語化されてきたということで、思いを言葉にする人が増えたら荒唐無稽な夢物語も、やがて現実になってビジネスになる。ビジネスにしたいと願う、その気持ちの強さと大きさにこそ恐れ入る。恐れるべきは、言葉に託すしかなかったその気持ち。

 

夜遅くに女性がひとりで出歩いても安全な街も、環境が悪化した地球というフィルター越しになると見えなくなる。現実に人間が二本足で歩ける大地が此方にあり、彼方にあるのは人が二本足で歩けるかどうかも怪しい空間で、重装備になるのは当然後者。現実的なビジネスができるのは、人が二本足で歩ける大地の方。

 

役に立つかどうかも不明な装備を売りたい人にとって嬉しい環境も後者で、誰もが商品テストで有用かどうかをチェックできないのも後者。

 

手つかずの土地が魅力的なのは、何もかもイチから作るしかないところ。あれもないこれもないは、見方を変えればあれも作れるこれも作れるで、足りないものを足していける。どんな物であっても赤ちゃんが成人になるより早く完成するから、人より物の方が増えるのも早く、簡単に増えるものは希少性を保ちにくい。

 

希少性が保てるのは、今後はもう増えそうにないもの。だから希少性に価値基準を置く人は、一定数以上は増え過ぎないように制限する。

 

一対一なら10人の文明人だって倒せる野蛮人も、一度に10人あるいは100人の文明人に襲いかかられたらひとたまりもない。組織的に動けるのは組織された文明人の証で、文明人の見た目がいかにも文明人っぽいとは限らない。

 

視聴率の枠外での視聴の方が、年々増えているに違いないスーパーボウル

 

チームメンバーを見ていると、ならず者と呼びたくなるようなワイルドな風貌の人と、なんでもそつなくこなしそうな優等生タイプが混同してる。タイプの違う、文明人っぽい人と野蛮人っぽい人が、統一された指揮系統のもとで、同じ組織として組織プレイで戦う姿はやっぱり近代のもの。異なるタイプとの協働は、近代あるいは現代のものだから。

 

組織的に動ける組織された文明人が、いかにも文明人っぽいユニフォームや見た目とは限らず、ならず者っぽいワイルドな見た目をしていることもある。

 

異なるタイプの人との協働を拒み、文明人っぽい人とあるいは野蛮人っぽい人だけで固まると、近代から遠くなって前近代により近くなる。ひと握りの大富豪が大富豪だけでつるむようになると、出現する世界は王者が絶大な権力を握った古代世界により近くなり、絶対王者の気分に左右される世界になるかもね。かもかも。

 

絶対王者の命令でしか、異なるタイプとの協働が実現しないのならそれも一種のパラドックス絶対王者の指示のもと、人為的に作られた異なるタイプとの協働世界では、指示のない場所では前近代に戻りがちという致命的な欠陥も生まれがち。