クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

へそまがり

かつての新聞は、インテリが作ってヤクザが売ると言われたように、時に強引な新聞セールスが嫌われていた。

 

読め読め、買え買えと強引に勧誘されたら誰だってイヤになる。豪華な景品で釣ってみたり、売る方にも工夫があったけれど、豪華な景品で釣れるのは景品目当てで契約と解約を繰り返す、ロイヤルティの低い顧客だけ。

 

いいものを作っていても、読まれなきゃしょうがない。だから強引な売り方になって、押しつけがましいことや強引なことは基本インテリとは相性が悪いから、結果的にインテリジェンスに欠ける売り方になったのが、かつての強引な新聞セールス。適材適所という言い方もあるけれど。

 

作る方だけでなく、売る方にもインテリジェンスが必要となった近頃では、強面は通用しない。強面が重宝されるケースも、あるっちゃあるんだけどさ。売る際の作法と作る際の作法と。どちらがより複雑になったのかと言えば、売る方かも。

 

売るに売れないものを、売ってこいと言われる方がより難しい。

 

積み上がる在庫はひとまず視界から追いやって。とにかく売り物を作るだけの方が、売るに売れないものを抱え込むより精神的負担は軽く見える。見えるだけで、実際はどうか知らないけれど。

 

強面が通用する範囲が狭くなっちゃったから、今となってはヤクザが作ってインテリが売った方が、もしかしたら効率がいいのかも。インテリではなく強面で生きてきた。くらいの意味でヤクザと使ってるんだけどさ。

 

インテリではなく強面で生きてきた人が作ったものを、インテリが売りたいかどうかはまた別の問題。単なる発想の逆転で、現実には意思のある人間を、チェスの駒のように扱ってもうまくいきっこない。

 

うまくいくわけないのにチェスの駒のように扱いたがる人は、自身にこれは単なる実験だと言い聞かせてるだけかも。実験と思えば、失敗にもめげない。本当は生身の人間をチェスの駒のように扱ったばかりに、深刻な事態を引き起こしたのだとしてもさ。