クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

知らなくて当たり前

織田信長でまず思い出すのは、美濃の斎藤道三の娘が妻で、お市の方が妹だということ。ついでに森蘭丸なんてのもあったね。本能寺の変なんて、知ってて当たり前でしょ。縁戚や人間関係といったこの種の雑学は、多分テストではあんまり重要視されないこと。

 

重要視されない事柄の方がお馴染みなのは、フィクションで面白おかしく取り上げられる回数が多いから。教科書よりもフィクションの方により馴染みが深いと、面白おかしく取り上げられる事柄にばかり詳しくなって、教科書的な事柄には疎くなる。

 

楽市楽座の創設に、僧兵焼き討ち。京都に入って天下人となった織田信長の名は、イエズス会士という日本に居住する外国人を通じて世界、というより西欧キリスト教国に伝えられたとか。京都に入って天下人となった、なんて当時はどう翻訳したのか。

 

天下統一ということばは、わかりやすくてわかりにくい。

 

天下を取った状態って何さ???と、突き詰めて考えるほどにわからない。同じ文化を共有していれば、単に天下を取ったで通じるものも、違う文化では通じない。

 

宮廷あるいは朝廷が存在するのに、戦国大名による天下統一とはどういうことなのか。と考え出したら、宮廷あるいは朝廷は、西洋社会における教皇庁のようなものと考えれば通じやすい。だったら、彼ら宮廷あるいは朝廷が庇護する宗教って何なのさ???と次に考え出すと、仏教と神道との関係を説明するのにひと苦労。

 

一神教しか知らない人に、神様は神様、仏様は仏様として贔屓にする態度をわかってもらうのは難しい。難しいから焼き払い、外国人にもわかりやすいようにしたと考えるのは乱暴だけど、維新後の廃仏毀釈だって、説明するのが難しいものをわかりやすくする作業と思えばより理解しやすくなる。

 

説明するのが難しくて面倒くさいから、異なる文化の外国人、それも主に富や先端技術を運んでくる外国人目線に合わせて解体するのも、きっとお家芸で伝統芸のひとつ。

 

富や先端技術を運んでくるのが、似た文化の延長線上という世界だったら、説明するのが面倒くさくて難しかったからという理由での乱暴な解体は、減るのかどうなのか。解体されずに温存されたままになると、よりワールドワイドな理解からは遠くなり、世界標準で見たら摩訶不思議。なんてことになるかもね。

 

戦国時代のイエズス会士は、行ってみればジャーナリストのようなもの。当時学のある人間と言えば、まずは宗教界だったから。ほんとかどうか知らないけど、宗教界では金融業は、あまり好ましく思われてなかったとか。

 

そのせいかどうなのか。お金まわりという、それいっちゃん大事なやつやんという大事な部分には触れずあるいはさわれずで、お金まわりをすっ飛ばすと、だいたい物事は表層をなぞるだけになりがち。