クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

舐めたらあかん

なめた真似をすればすかさず鞭が振り下ろされるのは、飴舐めた人。

 

舐めるには辛苦を経験するという意味もあり、なめるは無礼が動詞化したもので、相手を侮ること。飴と鞭は弾圧と譲歩でビスマルク。とはいえ敢えて曲解すれば、飴のように、つまりおやつやお菓子代わりに辛苦をつまんでもてあそんでみた人に、鞭が振り下ろされ弾圧されるのは、感情的には納得しかないわな。

 

目には目を、歯には歯をだったらハンムラビ法典で、より古代に近くなる。譲歩がないからイメージも膨らまず、言葉遊びにも苦労する。

 

飴と鞭だけだったら固定してゆるがないイメージに、ほんのちょっと揺らぎある、複数の解釈も可能になる何かを足してやると、固定していたはずのイメージも揺らぎ、もともとあった意味も薄れていく。

 

固定していたイメージをわざと崩すために、揺らぎある何かに足してる場合もあるんだけどさ。

 

もともとあった固定した意味が、簡単に揺らぐのは検索のせい。プラスのイメージがあったものにマイナスのイメージを重ねる。あるいはマイナスのイメージしかなかったものにプラスのイメージを重ねたかったら、検索結果をいじると手っ取り早いから。

 

簡単にはいじられないよう、検索結果をコントロールしたかったらぶっとい札束持ってこいだと、札束が飛び交う戦場になる。札束が飛び交う戦場なんだという先入観で検索結果を眺めるのか、それともなのかで結果の受け止め方も変わってくる。

 

ワード単体ではさほど価値のないものは野放しで、野放しだから好き勝手に遊びたい人が勝手に遊んでる。

 

遊ぶ余地があってよかったねと見るべきか、それともコモンセンスに欠ける場だねと呆れるべきか。遊ぶなら他のもので遊べばいいのに、何やってんだかと呆れるべきか。

 

自分たちの器以上のリーダーは持てないを実感するのは、そんな時。社会や世の中をきっちり映し出している。理想主義者以外にも開かれていたら、理想郷が理想郷でなくなるのもあっという間。