クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

風が抜ける景色

風を殺す景色と書いて、殺風景。あらやだ、よくわかる。

 

風が抜ける景色は、たいてい見晴らしがよくて心地いいから。風が抜けない景色には、ぎっちりや詰め詰め、ぎゅうぎゅうという形容詞がよく似合う。人やモノがひしめき合っていても、そこに笑顔のようにポジティブなものが垣間見えていたら、殺風景とはならず。

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うだるような暑さの時は、自然と近いという地の利を生かし、私だけが知っているお気に入り渓流あたりで涼しく過ごしたい。だがしかし。野生動物(おもにクマ)との遭遇を心配せずに、自然だけを楽しめる。そんな都合のいい場所が早々あるわけもなし。

 

知る人ぞ知る絶景。

 

そんな場所に心当たりがないわけでもないけれど、下手したら一日でたどり着けるのか心配になるレベルの冒険ルートで、背丈まで草木が生い茂った山道に分け入ることになるから、躊躇する。それでも入っていく人は居るんだけどさ。

 

目で見て楽しい自然は、ある程度人の手が入っているもの。

 

知床にはヒグマ除けの高架木道があったからこそ、原生林とその向こうの海という風の抜ける景色が楽しめた。あれが原生林の中から臨む海だったら、ヒグマを気にして悠長に景色も楽しめず、そもそも“抜け感“もないから、絶景と思うこともなかった。

 

見晴らしがいいというのは大事なポイントで、すでにゴテゴテと建物が雑多に建て込んだ場所では望むべくもなし。

 

50部屋程度かそれ以下の小規模な高級宿泊施設は、おもてなしできる限界の人数を示しているとともに、抜け感のある景色を提供しようと思ったらそれが限度ということなのかもと最近思うようになった。

 

50部屋程度だと予約も取りにくく、予約が取りにくいというのはある種のステータスにもつながるものだから、よく考えたもんだな、と。それが工学ってものなのか???

 

リラックスするためにはるばるやって来た場所なら、黒山モコモコの人だかりよりも、緑豊かな景色こそを楽しみたいと思いそうなもの。旅先で人を見るなら、同じホテルの宿泊者よりも、その街で生活してる人とすれ違う方が、旅に出た気分も盛り上がる。

 

例えばテトリス

 

空いたスペースがあれば、もれなく別の何かを無理くり嵌めこまずにはいられないというのも、引くに引けない強迫観念っぽい。都市のなかにポッカリ空いたスペースを、そのままにしておくと割れ窓につながるのも、よくわかるんだけどさ。都市ほど、引き算が難しいやね。

 

フードトラックのような、移動店舗が駐車できるスペースになったらステキとは思うものの、固定費払って商売してる人たちから疎まれそうで、ハードルは高し。定住してる人と移動する人との折合いも、つけ難いもののひとつ。

 

健全化をめざしたら一気にソッポ向かれて閑古鳥という構図は、際どいセクシーショットがウリだった人が、きっちり服着るようになったらそっぽむかれたみたい。不健全が回す世界の大きさに、恐れ入るというよりは呆れ返るの方が先に来る。

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こういう渓流のそばで涼みたい。。

お休みなさーい。

何も足さない何も引かない

着倒れ、食い倒れ、履き倒れは、それぞれ京都・大阪・神戸の気風を表したもの。それぞれのものにお金使い過ぎて破綻しがち、という意味合い。

 

京都の人は着るものにお金掛け過ぎて、大阪の人は食べ物にお金掛け過ぎて、神戸の人は履き物にお金掛け過ぎるとはいうものの、それぞれ地場産業と結びついてるから、実は結構なブラックジョーク。

 

札幌らしさと言われても、思いつくのは「降雪量がやたら滅多と多い都市」というイメージで、札幌の地場産業と言われてロコの人は一体何をイメージするのか。そもそもの「らしさ」に意思統一が図れてなかったら、足すものも引くものもわかりゃしない。

 

京都の大山崎にあるという、聴竹居。

 

和洋折衷なモダンな建物で、随所に先進的な仕組みを施している興味深い実験住宅。西洋建築をそのまま取り入れるのではなく、従来からある和風建築と融合した、オリジナル住宅に向けての取組みだから、実験なんすかね。

 

いろいろ工夫があるなかで、最も感心するのは通気口を設けて家の中を風が通り抜けるようにし、蒸し暑い京都の夏でも過ごしやすくなっているところ。風が抜ける仕組みによって、冬は温められた室内の空気を循環させるようになっていたはず。うろ覚えだけど。

 

もともとある緑豊かな自然環境が利用できれば、後付けの空調はいらない。暑いからと空調を遠慮なく使うと、今度は排熱で周辺一帯の温度も上がってしまうから、個別最適が全体最適を損ねてしまう。

 

個別最適と全体最適が調和する、設計者の高い志から生まれた工夫に、脳内へぇボタンも連打されまくり。

 

かといって、全体への遠慮がまさって空調を控えるようになると、今度は熱中症の心配が浮上してくるのが、現代の建物が建て込んだ都市の悩みでもあって。そもそも20階の窓を開けて、風を通すわけにもいくわけなし。

 

個別最適と全体最適は対立しがち。

 

賑わってる場所があれば、その場所をちょっとづつ拡大あるいは延伸していくと、連続して賑わうことになって地域全体が盛り上がる。というのは、よくわかってるんだけどさ。

 

札幌で言えば、例えば狸小路商店街大通公園。そもそも東西に長いから、いくらでも伸ばしようがある。

 

狸小路商店街は、近頃は観光客で賑わうようになった、アーケードのおかげで真冬でも気にせず出歩ける希少な場所。商店街のそれぞれの東西の端には、ニューフェイスのお店が増えている。国内外の観光客を取り込みつつ成長していって、その「端」が、例えば多数の観光客を受け入れ可能な大規模ホテルまでつながると、地域の盛り上がりにも拍車がかかる。

 

暮らすように旅したい個人旅行志向な人も、何も生活感あふれすぎる場所を歩きたいわけではなし。適度に賑わっていれば、ロコ以外の人間も歩きやすくて買い物しやすい。

 

歩きやすくて買い物しやすい場所に、ロコ以外の人も遠慮なく入れる場所といえば、まずは名の知られた大規模店。大規模店が橋頭堡となって、ロコ以外の人とよりローカルなものとの橋渡し役を、近頃は兼ねている。

 

コンビニやスーパーにある、ローカルブランドなら、ロコ以外の人も遠慮なく手に取れるから。

 

大規模ホテルには、たいてい周辺の主要観光地をめぐるバスが用意されているけれど、治安や言葉に問題がなければ、旅慣れた人ほど自分で回りたいと思うもの。不利益が大きそうな時は、バスを選ぶという合理的選択くらいしてる。

 

その街の未来は、街とともに生きるしかない人たちほど、真剣に考えている。

 

昼夜人口に差があり過ぎて、働くために通う場所・学ぶために通う場所あるいは暮らすための場所と専門分化し過ぎると、それ以外の人にとっては住みにくくなって、縮小局面でのダメージが大きくなり過ぎる。

 

街づくりや賑わい創出。賑わいを持続させるために、必要なものは何なのか。一見不必要に見えるものは、いち私企業が例外を認めてもらうためにやっていること。ということも、あるかもしれないわな。先例もあることだし。

 

世の中にはいろんなフェチがあるものだけど、街づくりフェチという人もきっといる。「僕・私が考えた、とってもステキな街」が実現するまで、何度でもトライ&エラーを繰り返し、そのために移動も厭わないような。

 

人が阻害要因となって思うようにステキ街づくりが進まないなら、人が少ない街に移動するに限るわな。人が居なきゃ街じゃないけど、街づくりがしたかったらさ。

 

お休みなさーい。

発想の転換

数字に弱いので、30℃超えという事実を目の当たりにすると、それだけで体温が上がる。

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夏だ。

大通公園ではビアガーデンも始まり、平日でも盛況。真っ昼間から、赤ら顔でえびす顔の人達が、ジョッキ片手に幸せそう。平日休日関係なく、もう夏休みなんだと思えば無問題。一ヶ月休みをもらえる代わりに、給料11ヶ月分。この暑さがこれからも続くなら、それでいいから真夏は休みたいという人も、一定数いそう。

 

車がないと、どこにも行けなさそうな不便な場所でバスを待つ人たちは、そうか避暑に来た人たちだったんだな、と通り過ぎてから気が付いた。

 

気温こそ高いけれど、湿度は低く夜ともなればもっと涼しい。避暑に来た甲斐のある涼しさとローカルっぽさは、間違いなく味わえるはず。どうせこの暑さも、長くは続かない。

 

ところで金(ゴールド)の価格が上がらない。

 

為替の問題もあるけれど、地政学リスクが一瞬盛り上がっても、以前のように金への逃避が盛り上がらなくなったので、逃避先が増えたに違いないと思ってる。

 

衣食住のうちどこに最も比重を置くのかという問題は、個人の嗜好をすっかり明らかにする。食べ物や、あるいは知識のような形になって残らない「消えもの」にお金を遣うのか。それともしっかりと形に残る「実物」にお金を遣うのか。

 

時計やバッグに車にその他。換金性の高いブランド品に囲まれて生活している人は、地震などの自然災害に備えて防災グッズを備蓄するようなもので、「いざ」という時のリスクに常に備えている人。という見方もできる。

 

食べ物に代表される、食べ過ぎれば脂肪にしか変わらない「消えもの」には決してお金を費消しない。臨時収入があっても、手堅くいつでも換金可能な実物にしか変えないというライフスタイルは、どう考えてもリスクマネジメントの賜物。リスクを意識せざるを得ない体験を通じて身に着けた知恵かもしれず、それは成金趣味とはちょっと違うかもね。かもかも。

 

脂肪にしか変わらないと知りつつも、食べ物のような「消えもの」にホイホイお金使ってる人は、思えばリスクに対して鈍感で、鈍感なままで居られるってことは、リスクからは遠いってことで、ある意味幸せな人なんだ。

 

持ち物はすべて、すぐに換金可能かどうか、取得価格とリリース価格との差額が極小になるかどうかを基準に選ぶという生活の知恵。どう考えても過去の生活は、カツカツやギリギリで、のほほんとは遠そう。

 

いつかは、すべて捨て去る日が来るかもしれない。

 

そう思っていたら、身の回りのものはすべて100均で揃えるか、名の知れたブランド品で揃えるかの二択になりがち。人前に出る必要のある人なら、100均グッズオンリーなわけにはいかないから、ブランド品に偏りがち。

 

時計にバッグに、アクセサリーにブランド品。

 

換金性の高いものを、素早くキャッシュに変えてくれるシステムの充実は、いつかはゼロになる日を恐れる人たちが増えたから。と、考えると、名の知れたブランド品で身を固めて武装した人ほど生き急いでそうで、大変ねぇという感想になるのでおすすめ。一体何をおすすめしてんだかわかんないけど。

 

お休みなさーい。

プラットフォーム

さるすべりに蝉の声。

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これは桔梗の花。

個人的にはどちらも真夏の象徴だけど、そのどちらも北の国では滅多に見ない聞かないもの。ということで、北の国には真夏は来ないと思ってる。

 

北の国で蝉がミンミン鳴き出したら、地球温暖化も身近になったと慄くね。今のところ、その気配はまったくなし。夕暮れ時の蝉しぐれの声は、何とも言えず切なくて、夏の終わりというより夏休みの終わりを予感させるものだから切なかった。

 

思えば終わりが切ないのも日本的情緒で、終わりイコール解放と捉えたら、ヤッタね!と小躍りしたくなるほどめでたいもの。

 

あじさいとタチアオイとひまわりが同時に乱れ咲く土地に居ると、情緒の歪みにも拍車がかかる気がしてしょうがない。

 

移動、引っ越しが多いと困るのは髪と歯。どちらもやたら滅多と数が多く、選ぶのに苦労する。ごくわずかな例外を除いて、気持ち的にはずっと美容室難民。美容室難民だから、美容室検索サイトをよく覗く。よく覗くから気付く、美容室界隈の変化。

・株式会社が増えた

・株式会社の場合、チェーン展開してるエリアも幅広くなった

・少人数向けサロンも増えた

 

面貸しという業界用語を知ったのも、サイトから。働き方が多様化したら、世の中のすみずみまで多様化するもんだねと、当たり前のことを知る。

 

株式会社化の流れが、独立開業を志向する人の働き方を特に変えているのかも。かもかも。少人数サロンといえば独立開業した人のオーナーサロンと思いがちだけど、実はオーナーは別にいるケースも相当増えてるんじゃないかと勝手に予想。飲食店の業態と相似形な感じで。

 

札幌というそこそこの都市。東京に比べればコストは安いかもしれないけれど、その代わりお客さんの数も少ない。近頃は地方都市とはいえ賃料は上がってそうだから、お客さんがそれなりに入る場所でのコストは、地方で開業するうまみを削ってるかも。

 

300万円あったら会社を買え的な本もあったけれど、どこに預けてもさしてうまみが感じられない時は、人への投資が一番効率よかったりする。使い道のないお金を持ってるお金持ちの人ほど、人に事業やらせたがるんだよな。やらせるあるいはやってもらう事業が、確実に日銭を生むとわかってたら投資効率はさらに上がる。

 

ということで、独立開業志向が強い業種には、すでに相当額のお金が投資として投下されてんじゃないの。という目で街を眺めると、何でもないことでも面白い。自分にピッタリなステキ美容室探しは、ちっとも捗らないんだけどさ。

 

プラットフォーム事業は、結局たくさん集めたところが最強になる。地盤・看板・カバンとか言うけどさ。すでに札束がぎっしり詰め込まれたカバン持ってる人は、どこでどんな看板出しても何とかなるもんさ。

 

お休みなさーい。

砦か檻か

あなたがたは、フニャララがホニャララでまずくなってからの生まれでしょ?残念ねぇ。

 

なんて言われたら、上から目線とカチンと来そうなもの。言った相手が、けた外れの贅沢に慣れた優雅な貴婦人だったら、ほんとに憐れんでそうだから、怒る気にもなれない。

 

東インド会社海上交易で莫大な利益を上げるもととなった、香辛料に織物にお茶。今考えると、たかが香辛料にその他でねぇ。。という気持ちになるけれど、他人が持ってないものに大枚払う人は一定数居る。

 

他人が持ってないもの、それも上位互換となる何かで他者との差別化を図って優越感を得る。あるいは快楽を追求するために大枚はたく人が一定数居て、積もり積もって莫大な利益のもととなるんだから、優越感は侮れない。

 

肝心なのは、優越感競争は貴族のお遊びで、いち庶民が真似したところで早晩破綻するってこと。

 

売れるものがそれしかないから、持ってる着物を一枚一枚売ってはお金に替えていくことを、タケノコ生活と呼んだとか。今は、フリマアプリを使えば人に知られずともタケノコ売りになれるんだから、「みっともない」あるいは「みじめ」という感情を潰す仕組みが、お金を循環させる場にもなってるんだから興味深い。

 

みっともないをそのままお金に変えるより、とっても民主的。

 

物心共に、けた外れに豊かな生活が垣間見れる読み物が昔から好きだった。好きだったけど、けた外れに豊かな人が豊かなプライベートを晒すと、黒い染みをつけるような行為を厭わない人が、いつからか増えた。

 

その人の読み物を載せている媒体(ちなみに紙媒体。リッチな人にこそ似合う、服やグッズを紹介していながら、何やってんだ???と思ってたら、どんどんおかしな路線を突き進んだから、きっと内部にヘンな人が居たんだろう)でさえ余計なコメント、例えば「その豊かさがどこから来ているのか考えたこともないのでしょう」的な小賢しい一文を、よりによって書いている本人の目にも止まる場所にも載せるようになった頃から、この手の読み物、けた外れの豊かさを垣間見させてくれる読み物も見なくなった。

 

そりゃそうだ。どう考えてもどこからか頼まれて、良かれと思ってしたことに対してさえ悪意をあからさまにされるなら、そんなもんやってられない。

 

好ましいものが見つけやすい場所から順次消えていくのは、数では圧倒的に勝る下から逃げるため。

 

快適な個人的空間に慣れ切ったあとで不快なものと出会ったら、また快適な個人的空間に戻ってゆく。それなりにコストと時間をかけて、パーソナライゼーションという砦を築いて囲い込んだ後で、やっぱりあっちと脱走されたら砦に追いやった方こそたまんない。

 

逃げ出せない・投げ出せないんだったら檻に入れたも同然で、あとは豪華な檻か粗末な檻かの違いだけ。同じ檻なら、粗末な檻の方がまだ逃げやすいんだけどね。

 

お休みなさーい。

先週食べたものの振り返り

ほんの一瞬、北国とは思えないほど暑ーい日があったものの、今はひと段落。夜になると特に涼しくて、20℃を切っている。真冬にはブリザードに襲われるんだから、この程度の優位性は許されてもいいはず。

 

日中の気温が50℃を越える世界では、現地の人はどういう生活を送ってるのか。生産性とか言い出したら、ぶん殴られそう。

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  • 生姜焼き、ズッキーニのおかか和え、おかひじきとトマトのサラダ
  • オムレツ、ズッキーニのおかか和え、コーンポテトサラダ、おかひじきとちくわの煮物
  • きゅうりのそぼろ炒め、かぼちゃの揚げ煮、ゴマ豆腐
  • 豚肉とナスの柳川風、温麵
  • 唐揚げのトマト和え
  • 麻婆春雨、トマトの甘酢和え 

鰻のかば焼きがお手頃価格で手に入ったのは、奇跡だったと思って忘れようという態度を数年前から貫いている。鰻は高級品で、手抜きで一品感覚の食材として使えた方がおかしかったんだ。高級品だから、鰻をわざわざ食べに行くことがイベントだった。

 

あまねく普及したあとで、急速にシュリンクする現象。専門用語とかあるんすかね。

 

暑くて食欲がわかないけれど、アイス漬けになるほど暑くもないので、果物で作るスムージー程度でちょうどよし。

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メイン食材はハウスみかん。いつもは冷やして食べるだけだったけど、冷凍にしてスムージーの材料にしてみたら、いい感じになったので気に入った。冷凍ミカンと生のミカン、ついでにモンキーバナナと少しのヨーグルトと、何気に食材をいっぱい使ってるので、腹持ちもいい。

 

お腹いっぱい食べたくもないけど、小腹が空いてる時にぴったり。腹持ちをもっと良くしようと思ったら、冷蔵庫や冷凍庫に余ってる果物を逐次投入。始末の一環だな、これも。ハウスみかんが底をつきそうだったので、ネットで検索すると、やっぱりあったスムージー用冷凍フルーツ。

 

ジュースや缶詰への加工とただ凍らすだけと。どちらが簡単かというと、冷凍の方だと思えるけどどうなんすかね。高く売れなきゃしょうがねぇという発想から、まずは考えるべきなのか。

 

旬の時期は一瞬でやってきて、旬の時期に大量に出荷するには人手が必要だから、生鮮食品の流通は難しいやね。フルーツピッキング非正規雇用は相性よしで、むかーしから渡り鳥のように流浪する人たちの受け皿だったはず。日本には限らない話で。

 

さくらんぼ、今年は旬を見極めるのが難しくて、ほんの一瞬の邂逅に終わりそう。

 

いかにも本物らしい手の込んだ贋作、作る動機にお金があるのはもちろんのこと、権威を翻弄したいという歪んだ欲望と熱意も根底になきゃ続かない。

 

形式主義への反発というか反骨というか、主張してることは至極真っ当だから表現方法変えるか媒体変えればもっと評価されるのに。という人が決してスタイルを変えない場合、その人がやりたいことは、変えればいいのにやめればいいのにという行為そのもので、業が深い。

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夏場は、この手の透明感がある目にも涼しい涼菓が嬉しい。お菓子じゃなくて、涼しさを食べてる。

 

お休みなさーい。

アトラスが背負う世界の重み

アトラスの肩の上には世界が乗っかっている。

 

アトラスが背負っている世界、あるいは巨大システムの重み。体感するには変わって背負うまでもなく、彼らが背負い引き受けている、世界そのものを見せてしまえばいい。

 

すると、ピラミッドの頂点に立つものは、同時に世界をその肩に背負う、アトラスでもあることがわかるから。

 

ナレーションという作り手の主観を排し、巨大なスポーツスタジアムに集う人と働く人を追っただけのドキュメンタリー、『ザ・ビッグハウス』はそんな映画。

 

予期せぬ時に飛び込んでくる広告は嫌われ者だけど、嫌われ者の広告あるいはプロモーションが社会悪の追放とセットになってると、一転して好ましいものに変わるやね。日大アメフト部のスキャンダルが無ければ、そもそも「アメフト」をテーマにした映画に注目することもなかったよ。

 

ついでに、『ザ・ビッグハウス』が取り上げているのはミシガン大学のアメフトチーム・ウルヴァリンで、そんな名前のアメコミ映画もあったねそういやと、映画ひとつで思考があっちにもこっちにも飛ぶ、これは個人の感想です。

 

10万人が集結する場には、10万人を遅滞なく受け入れ事故なく運営するノウハウが、ぎっしり詰まってる。なんてことは、コミケの運営にちょっとでも関係あるいは関心を持った人ならきっと、大体想像がつくような映像ちょっとアメリカン風が、これでもかと続く。

 

コミケに限らず、千や万単位で人が集まってくる学会やコンサートやイベント。その種の集まりのバッグヤードで行われていることも、きっと大して変わりゃしない。各種イベントと一線を画す大学スポーツの側面は、地域経済のハブになっている定期イベントであることと、地域経済を潤すスター選出システムを兼ねていること。

 

成功した卒業生が、特別ルームを借り切って試合を観戦するシーンがあったけれど、経済的合理性を考えたら、多分無駄。それでもご本人は満足そうで、名誉欲を十二分に満たしてくれる行為なんだと知れる。

 

世界、あるいはアメリカをしょって立ってるわけではないけれど、この地域を支える名士だという自負は、何某かの劣等感を払拭してくれる。

 

名門校を卒業した人は、大体において母校を愛する気持ちが強い。母校がランクアップすると、自動的に自身のステータスも上がるからで、自身のステータス向上に繋がるから、寄付その他を通じて母校を支援する。ハーバードとかその点凄いよね。支援は後進の育成に繋がり、映画でも学長が奨学金制度の充実に触れていた。

 

ミシガン州の地域経済を潤す巨大システムとなっているから、いったんそのシステムに組み込まれたら、次はそこから抜け出すのが大変そう。

 

成功者と同時に、そうでもない人も映像は無慈悲に映し出す。

 

激しく差別されるあるいはされた人は、往々にして差別肯定者になりがちという仮説を持ってるんだけど、仮説が補強されたような気がしてしょうがない。人に嫌がられる役割の近くには”祈り“の場が用意されていて、逆境をバネに前に進むとは限らない人の受け皿にもなっていた。

 

激しい差別に晒される人は往々にして差別を肯定する側に回るから、自尊心と平常心を回復させる“祈りの場“を併設し、暗黒面に落ちないようケアしてるようにも見えた。システムの内側に居る限りは。システムの外に出てしまうと、もう”祈りの場”さえ与えられない。

 

同時に痛感するのは、美しいものを美しいと肯定し、可哀そうなものに哀れを感じる柔らかな感性は、ネガティブな感情をバネにしたシステムからは決して生まれないってこと。昨日の繰り返しだけど。

 

巨大なシステムに組み込まれた人たちが、一堂に会して一喜一憂するのは、勝ち負けで黒か白かの二者択一で、グレーといった曖昧な立ち位置を許さない。なんてったって競技の場だから。

 

巨大なシステムは、巨大なパワーがないと前に進めない。

 

曖昧さを許さず無慈悲なまでに勝者と敗者を分かつのは、すべて巨大なパワー創出のため。ミシガン州という、NYでもシリコンバレーでもないアメリカの地方都市がパワー創出のために選び磨き上げたのはスポーツで、文化や芸術や先端技術に頼ってないところが現実路線。

 

そう思うと、“自分のことは自分で”という巨大なパワーを必要としない小さな世界は、とってもエコ。

 

成長のエンジンとして巨大な人的パワーを必要とする、巨大なピラミッドの頂点の下には無数の敗者がひしめいている。だから、アトラスが背負う世界もそれだけ重くなる。

 

ボストンダイナミクス級あるいはペイパル級の企業が産まれるまでは、この状況が続くよどこまでも。というアメリカの地方都市における、大学スポーツと教育とビジネスが混然一体となって商業資本主義に組み込まれている状況を、一見商売っ気薄く見せていた。

 

MBAに代表されるビジネススクールが資本主義の士官学校なら、大学スポーツのチームは、特殊部隊養成機関とでも思えばいいんすかね。

 

ピラミッドの頂点に君臨する人やモノは、しばしば激しい非難の対象になりがち。非難の声も往々にして途中で尻すぼみになりがち。だったら代わりに世界を背負うアトラス連れて来いよと言われたら、小声になるしかないもんね。神話によると、ヘラクレスは上手に逃げたんだよね、確か。

 

お休みなさーい。