クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

アトラスが背負う世界の重み

アトラスの肩の上には世界が乗っかっている。

 

アトラスが背負っている世界、あるいは巨大システムの重み。体感するには変わって背負うまでもなく、彼らが背負い引き受けている、世界そのものを見せてしまえばいい。

 

すると、ピラミッドの頂点に立つものは、同時に世界をその肩に背負う、アトラスでもあることがわかるから。

 

ナレーションという作り手の主観を排し、巨大なスポーツスタジアムに集う人と働く人を追っただけのドキュメンタリー、『ザ・ビッグハウス』はそんな映画。

 

予期せぬ時に飛び込んでくる広告は嫌われ者だけど、嫌われ者の広告あるいはプロモーションが社会悪の追放とセットになってると、一転して好ましいものに変わるやね。日大アメフト部のスキャンダルが無ければ、そもそも「アメフト」をテーマにした映画に注目することもなかったよ。

 

ついでに、『ザ・ビッグハウス』が取り上げているのはミシガン大学のアメフトチーム・ウルヴァリンで、そんな名前のアメコミ映画もあったねそういやと、映画ひとつで思考があっちにもこっちにも飛ぶ、これは個人の感想です。

 

10万人が集結する場には、10万人を遅滞なく受け入れ事故なく運営するノウハウが、ぎっしり詰まってる。なんてことは、コミケの運営にちょっとでも関係あるいは関心を持った人ならきっと、大体想像がつくような映像ちょっとアメリカン風が、これでもかと続く。

 

コミケに限らず、千や万単位で人が集まってくる学会やコンサートやイベント。その種の集まりのバッグヤードで行われていることも、きっと大して変わりゃしない。各種イベントと一線を画す大学スポーツの側面は、地域経済のハブになっている定期イベントであることと、地域経済を潤すスター選出システムを兼ねていること。

 

成功した卒業生が、特別ルームを借り切って試合を観戦するシーンがあったけれど、経済的合理性を考えたら、多分無駄。それでもご本人は満足そうで、名誉欲を十二分に満たしてくれる行為なんだと知れる。

 

世界、あるいはアメリカをしょって立ってるわけではないけれど、この地域を支える名士だという自負は、何某かの劣等感を払拭してくれる。

 

名門校を卒業した人は、大体において母校を愛する気持ちが強い。母校がランクアップすると、自動的に自身のステータスも上がるからで、自身のステータス向上に繋がるから、寄付その他を通じて母校を支援する。ハーバードとかその点凄いよね。支援は後進の育成に繋がり、映画でも学長が奨学金制度の充実に触れていた。

 

ミシガン州の地域経済を潤す巨大システムとなっているから、いったんそのシステムに組み込まれたら、次はそこから抜け出すのが大変そう。

 

成功者と同時に、そうでもない人も映像は無慈悲に映し出す。

 

激しく差別されるあるいはされた人は、往々にして差別肯定者になりがちという仮説を持ってるんだけど、仮説が補強されたような気がしてしょうがない。人に嫌がられる役割の近くには”祈り“の場が用意されていて、逆境をバネに前に進むとは限らない人の受け皿にもなっていた。

 

激しい差別に晒される人は往々にして差別を肯定する側に回るから、自尊心と平常心を回復させる“祈りの場“を併設し、暗黒面に落ちないようケアしてるようにも見えた。システムの内側に居る限りは。システムの外に出てしまうと、もう”祈りの場”さえ与えられない。

 

同時に痛感するのは、美しいものを美しいと肯定し、可哀そうなものに哀れを感じる柔らかな感性は、ネガティブな感情をバネにしたシステムからは決して生まれないってこと。昨日の繰り返しだけど。

 

巨大なシステムに組み込まれた人たちが、一堂に会して一喜一憂するのは、勝ち負けで黒か白かの二者択一で、グレーといった曖昧な立ち位置を許さない。なんてったって競技の場だから。

 

巨大なシステムは、巨大なパワーがないと前に進めない。

 

曖昧さを許さず無慈悲なまでに勝者と敗者を分かつのは、すべて巨大なパワー創出のため。ミシガン州という、NYでもシリコンバレーでもないアメリカの地方都市がパワー創出のために選び磨き上げたのはスポーツで、文化や芸術や先端技術に頼ってないところが現実路線。

 

そう思うと、“自分のことは自分で”という巨大なパワーを必要としない小さな世界は、とってもエコ。

 

成長のエンジンとして巨大な人的パワーを必要とする、巨大なピラミッドの頂点の下には無数の敗者がひしめいている。だから、アトラスが背負う世界もそれだけ重くなる。

 

ボストンダイナミクス級あるいはペイパル級の企業が産まれるまでは、この状況が続くよどこまでも。というアメリカの地方都市における、大学スポーツと教育とビジネスが混然一体となって商業資本主義に組み込まれている状況を、一見商売っ気薄く見せていた。

 

MBAに代表されるビジネススクールが資本主義の士官学校なら、大学スポーツのチームは、特殊部隊養成機関とでも思えばいいんすかね。

 

ピラミッドの頂点に君臨する人やモノは、しばしば激しい非難の対象になりがち。非難の声も往々にして途中で尻すぼみになりがち。だったら代わりに世界を背負うアトラス連れて来いよと言われたら、小声になるしかないもんね。神話によると、ヘラクレスは上手に逃げたんだよね、確か。

 

お休みなさーい。