風を殺す景色と書いて、殺風景。あらやだ、よくわかる。
風が抜ける景色は、たいてい見晴らしがよくて心地いいから。風が抜けない景色には、ぎっちりや詰め詰め、ぎゅうぎゅうという形容詞がよく似合う。人やモノがひしめき合っていても、そこに笑顔のようにポジティブなものが垣間見えていたら、殺風景とはならず。
うだるような暑さの時は、自然と近いという地の利を生かし、私だけが知っているお気に入り渓流あたりで涼しく過ごしたい。だがしかし。野生動物(おもにクマ)との遭遇を心配せずに、自然だけを楽しめる。そんな都合のいい場所が早々あるわけもなし。
知る人ぞ知る絶景。
そんな場所に心当たりがないわけでもないけれど、下手したら一日でたどり着けるのか心配になるレベルの冒険ルートで、背丈まで草木が生い茂った山道に分け入ることになるから、躊躇する。それでも入っていく人は居るんだけどさ。
目で見て楽しい自然は、ある程度人の手が入っているもの。
知床にはヒグマ除けの高架木道があったからこそ、原生林とその向こうの海という風の抜ける景色が楽しめた。あれが原生林の中から臨む海だったら、ヒグマを気にして悠長に景色も楽しめず、そもそも“抜け感“もないから、絶景と思うこともなかった。
見晴らしがいいというのは大事なポイントで、すでにゴテゴテと建物が雑多に建て込んだ場所では望むべくもなし。
50部屋程度かそれ以下の小規模な高級宿泊施設は、おもてなしできる限界の人数を示しているとともに、抜け感のある景色を提供しようと思ったらそれが限度ということなのかもと最近思うようになった。
50部屋程度だと予約も取りにくく、予約が取りにくいというのはある種のステータスにもつながるものだから、よく考えたもんだな、と。それが工学ってものなのか???
リラックスするためにはるばるやって来た場所なら、黒山モコモコの人だかりよりも、緑豊かな景色こそを楽しみたいと思いそうなもの。旅先で人を見るなら、同じホテルの宿泊者よりも、その街で生活してる人とすれ違う方が、旅に出た気分も盛り上がる。
例えばテトリス。
空いたスペースがあれば、もれなく別の何かを無理くり嵌めこまずにはいられないというのも、引くに引けない強迫観念っぽい。都市のなかにポッカリ空いたスペースを、そのままにしておくと割れ窓につながるのも、よくわかるんだけどさ。都市ほど、引き算が難しいやね。
フードトラックのような、移動店舗が駐車できるスペースになったらステキとは思うものの、固定費払って商売してる人たちから疎まれそうで、ハードルは高し。定住してる人と移動する人との折合いも、つけ難いもののひとつ。
健全化をめざしたら一気にソッポ向かれて閑古鳥という構図は、際どいセクシーショットがウリだった人が、きっちり服着るようになったらそっぽむかれたみたい。不健全が回す世界の大きさに、恐れ入るというよりは呆れ返るの方が先に来る。
お休みなさーい。