ホワイトイルミネーションが始まってもさっぱり降る気配も積もる気配もなかった雪が、ようやく札幌でも降って積もったのは12月に入ってから。去年(2021年)よりも遅い。
滑ったり転んだりすることを思えば厄介者だけど、ホワイトイルミネーションはやっぱり雪と一緒に見る方が何倍もきれいでファンタジック。
190万人が済む都市圏とは思えないほどの積雪に驚いたのも、雪が降っても支障なく日常生活が営まれるのに驚いたのも、今は昔。
札幌に新幹線が走るようになる未来の雪景色は一体どんな風になるものか。あんまり雪の降らない北の都市(=都会)といえば仙台で、仙台のようになるのかそれともやっぱり雪は降って積もり続けるのか。
ライフスタイルの変化込みだから、どう転ぶのかよくわからない。
雪がたっぷり積もった大通公園に時計台にエトセトラ。雪景色そのものが、いつかは“もう今では見られない景色”になるのかもしれないと、素敵な雪景色を瞬間冷凍した景色につい心が奪われがち。
夏は蒸し暑くて冬は底冷えする。寒暖差の激しい土地で生まれ育ったけれど、霧のようなものを見ることは滅多になく、視界が悪くなって車の運転を躊躇するほどの霧に初めて遭遇した時は、面倒くさいと思うよりも物珍しさの方が勝ってた。
フォグランプの必要性を認識したのも、霧にたびたび見舞われるような土地に住み始めてから。制御できない自然が身近になると、装備は手厚く過剰になるんだと思ってる。
宇宙に深海。そもそも人類の居住に向いてない空間へ赴く乗り物には、用途不明なたくさんのスイッチが付きものなのもそういうことで、生き物は環境に適応してその姿を変えていくけれど、生き物ではない乗り物は自然にその姿を変えるわけじゃない。だから何らかの操作が必要になってスイッチが必要になる。
頻繁に霧に見舞われる土地で生まれ育つと、霧の発生で一喜一憂したりしない。ある程度特異な自然現象であっても身近過ぎるとその特殊性に気付けない。オーロラも雲海も、身近ではない(=見たことがない)人が見るから感動が大きくなり、大いに感動できるという評判が人を呼ぶ。
だから、ある程度特異な自然現象の特異性を最初に見出して観光資源とした最初の人は、目の付け処、視点や視野に視界が違って広いから偉い。
コピーを作る(=見出す)のは比較的容易で、集客だけが目的なら二度目三度目と事例を重ねるほどに手法も洗練されていく。
三日も経てば、そういやそんなこともあったねで済んでしまうような浅い感動を広く薄く与えるやり方と、例えば自身の死が身近に迫った時にも鮮明に思い出せるような深い感動を特定個人に与えるやり方は全然違う。
お先真っ暗で明るい未来を見通せないような時に、それまで身近にありながら見過ごされてきたようなものに価値を見出し付加価値を極限まで大きくして人を呼び、“観客”を作って売りに出す。売り物ができたことで、明るい未来も一緒に呼び寄せた。
その種の感動を与えた人に対する好意は、誰かに強制されなくても続く。
異なる視点・異なる視界・異なる視野を持つ人(=人達)が与えてくれた、それまで身近過ぎて誇ることもなかったものが”生きる糧”となって現実にお腹をいっぱいにしてくれたから、感動はより深くなって長く続くんだろう。
雪が降らなくなるのならよりゴージャスな方に、雪が今と変わらず降るなら雪景色を計算に入れた簡素な方へと向かうのかも。かもかも。