クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

裾野が広いか狭いか

冬季オリンピックではやっぱり採点競技を熱心に見たけれど。

 

フィギュアスケートの場合、滑り終わったあとの競技者の表情を見れば、満足できる演技だったかどうかがよくわかる。

 

技術面でも失敗なく、表現したい世界を存分に表現できたんだと思しきときは、競技者自身がまず感極まっている。観客よりも関係者(=同業者)の多い場所でより多くの拍手をもらっているのなら、見ている側も競技者の感動に同調している。

 

感動しやすいのはわかりやすい方。

 

最高難度の技を揃え、すべての技を成功させた、技術面では世界の誰も真似することができないほど高度な演技であったとしても、高度すぎるからその凄さを瞬時に理解できるのは世界でもごくわずか。

 

技術面の凄さはスコアという数字で表現され、数字を見れば誰もがその凄さを理解するけれど。凄さは感動とはイコールじゃないから、技術的には文句がつけようのないほど素晴らしくても意外と記憶には残らなくて、凄いねぇという感心が先に立つと感動もしにくくなって、記憶にも残りにくくなるのかも。

 

勝って当たり前の人やチームが、文句のつけようがない高スコアを叩き出して完全試合で勝利するようになったとき。高スコアに興奮するのも最初のうちだけで、完全試合が当たり前になると感動はより遠くなる。

 

難易度の高い技を失敗することなく正確無比に繰り出すには相当の訓練や鍛錬が必要だけど、強化された人やチームが失敗なく難易度の高い技を繰り返していると“人間らしさ”を感じることは少なくなる。機械を見ているような気持ちになって、機械だから成功して当たり前のようにも思い、人の心が動かなくなるのかも。

 

目の前で、熟練したあるいは卓越したパティシエが手ずから作った繊細なスイーツには感動するけれど、パティシエの技をすっかり学習した機械が作ったスイーツは繊細であっても工業製品としか感じないから、感動は遠くなって反応するのは価格という数字だけ。みたいな現象や状況。

 

だから、演技のなかにスコア面では評価が低いか評価されない“無駄な動き”ながらアクロバティックで観客ウケする技を取り入れるのは“人間らしさ“のアピールで、人間らしさを感じるとわかりやすくなって、高評価を得やすいという計算なのかも。

 

だからといって毎回稚拙な技を取り入れるのにも飽きてくると、高難易度で高い技術がストレートに感動につながるよう、観客のレベルを上げるために競技の裾野をひろげ、経験者を増やしていく段階に入っていくのかも。

 

経験者が増えると技術の高さが評価につながるようになり、高評価が競技者にまで届くようになるとわかる人(=審判や関係者)だけにじゃなく、高難度の技術が瞬時には理解できない層にまで高い技術面をアピールするようになって、ショーやエンタメ要素に加速がかかって増えていく。

 

それが普及した採点競技のありようで、ショーやエンタメ要素の加速に否定的だと、まだ普及以前の段階にある、裾野のせまーい領域へと向かうのかも。かもかも。