クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

フレンチトースト

卵1個につき牛乳は1カップ、お砂糖はほんのちょっと。バニラエッセンス(=バニラオイル)を一滴か二滴垂らすと、焼き上がった時はより甘い。

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(これはフルーツや果物で飾った、休日のブランチバージョン)

固くなったバゲットや食パンに卵液をすっかり吸わせ、溶かしバターでフライパンまたはオーブンでこんがり焼いて、蜂蜜やメープルシロップをたっぷりかけて出来上がり。

 

それが家で作るフレンチトーストのレシピで、固くなったバゲットや食パンを使うのは普段着の食べものだから。

 

フレンチトーストで思い出すのは『クレイマー、クレイマー』で、どんな素晴らしいフレンチトーストだったかと見てみたら、あららちょっと、だーいぶ貧弱で思ったほど美味しそうじゃない。

 

けれど、ママは居ない、パパは仕事で忙しい。そんな中でビリーのためにパパが用意してくれたフレンチトーストで“オヤジの味“だから、味や見た目は大した問題じゃない。

 

仕事が認められて昇進もし、さぁこれからという時にMr.クレイマーの奥さんはまだ幼い一人息子を残して家を出る。

 

そこからスタートした父と息子の二人という父子家庭の生活と彼らに対する理解は、映画からそろそろ半世紀に手が届きそうという現在でもあんまり変わってなさげ。

 

アート関係の専門職(アートディレクターとかそんな感じ)として働いているっぽいMr.クレイマーの自宅は、マンハッタンにも近い好立地のアパートメント。センスが良く、高級感よりも居心地の良さを感じる空間で、夫婦や息子の写真はあっても祖父母の写真はない。

 

クリスマスには会社の人とパーティーか、子供の通う学校でクリスマスにちなんだ劇を保護者とともに観覧するという過ごし方で、そこにもやっぱり祖父母の姿はなく、家族や一族と過ごすという伝統的なライフスタイルとはそもそも違うライフスタイルの家庭なんだとわかる。

 

だから、母親が居なくなった後も祖父母や親戚を頼ることもなく、友人・知人の助けを借りながらMr.クレイマーが息子の面倒をみている。

 

NYという大都会でアートの専門職という先端の職に就いているけれど、父子家庭に対する配慮は乏しく、夫は仕事で妻は家庭という棲み分けが根強いままなのは、クリスマスの過ごし方からもよくわかる。

 

母親しか居ない学校行事にも臆せず出席するMr.クレイマーは、仕事(=父性)をこなしながら母性の領域にも越境している。父性をこなしながら母性もこなすMr.クレイマーは、大都会の新しい職業につく先端の中でも珍しい存在で、珍しい存在だからぴったりフィットするポジションやカテゴリーは少なくMr.クレイマーはいつも大変そう。

 

父性と母性の二役が大変そうであっても、彼が息子の面倒を一生懸命に見るのは、息子の存在がエネルギー源でやる気の源だから。だから仕事にも前向きだけど、父子家庭に対する理解に乏しい社会や会社でMr.クレイマーの前向きな努力は正当に評価され難い。

 

ママは居ない。パパには時々彼女ができるけれど(不倫と違って自由恋愛を楽しめる立場だから、反感を得やすく共感され難い所以)、パパはパパでパパの家族は僕。

 

ママを呼びながら泣きながら、眠りについたこともきっと一度じゃない。危機が訪れた時にはただパパを呼ぶようになり、パパとの二人の生活にも慣れた頃、ママが再び二人の前に現れて、ビリーの親権をめぐって元夫婦が法廷で争うようになる。

 

父性と母性の二役をこなすMr.クレイマーの前に現れた、元妻であるMrs.クレイマーは再就職もしていて、母性と父性の二役をこなす存在として登場する。

 

父性も母性も、専念することができたら成果は上がる。

 

父性(=仕事)に専念することを微塵も疑っていなかったMr.クレイマーは、妻の突然の出奔によって父性と母性を無理矢理兼任することになる。出奔した妻は仕事(=父性)に専念して父性を強化し、母性と父性の兼任可能な状態でMr.クレイマーの前に現れる、ザ・理不尽。

 

最も不憫なのはビリーで、映画というフィクションはビリーにフェアな結果を用意し、さらなる理不尽がビリーを襲わないよう配慮する。

 

夫と妻と子供というパーツが組み合わされて、家族となる。

 

クレイマー家からはまず妻というパーツが取り外されて、夫と子供という恐らく母子家庭よりも数が少ない家族になる。少ないから互換性に乏しく、共感を得る機会も少なくなる。

 

夫と妻と子供という標準家庭向けのパーツは互換性が高く、互換性が高いからフィットするポジションもカテゴリーも多く、共感を得るのも容易。

 

クレイマー家の元妻は、妻の次に子供というパーツを取り外そうとし、映画内では妻の恋人の存在が仄めかされていた。元妻はその気になれば元妻とその子供、そして新しい夫の三人で新しい家族を作ることもできる。

 

けれど、パパとママと僕からパパと僕になり、ママと僕になってママとママの結婚した新しいパパと僕の三人になった時、ビリーはパパとママと僕だった頃のビリーのままでいられるのだろうか。

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三人から父と子の二人になった時、Mr.クレイマーが1日25時間働いてでも父性と母性の二役をこなそうと努力したのは、ビリーはビリーのまま成長することを望んだから。

 

環境が変わるたび、変わった環境に合わせて夫と妻に子供という家族を構成するパーツが各々より“らしく“を目指したとき、各パーツの互換性は高まって、互換性の高いパーツから構成された家族はより解体されやすくなる。

 

営業マンとして優秀、エンジニアとして優秀、経営者として優秀だと転職が容易になるのと大体一緒。

 

パパとママと僕からパパと僕になって、もしもママと僕になって、ママとママと結婚した新しいパパと僕になって、パパがパパの彼女と結婚した時、僕はパパと僕だった時の僕のまま、パパのところに時々帰ってもいいの?とビリーが疑問や躊躇いを感じるようになる日が来ることだって考えられる。

 

ほっておけばバラバラになりがちなパーツを繋ぎとめる何かがないと、仲のよい家族であっても壊れてしまうこともあり、ビリーの子供もまた祖父母を持たない、祖父母とは縁の薄い家庭に育つことになるかもしれない。

 

豪華でもなければゴージャスでもないフレンチトーストは、ある日突然二人になった父と子を繋ぐ強力な接着剤で、父と子の間にはすでに強力な繋がりがある。しっかりと繋がった父と子が離れ、母が母と子が繋がる強固な繋がりを用意出来ないままだったら、母と子の繋がりも薄れ、すでに父と離れた子供が母との繋がりも薄れてしまったら子供は漂流してしまうかもしれない。

 

なぜならまだ幼い子供は余裕のない大人の心中を思いやることは難しく、早く良いパーツになろうとする子供は大体無理をするものだから、無理は続かない。

 

会社のような組織は利益という目に見える共通利害と目標を持ちやすく、共通の利害と目標が明確なほど“よいパーツ“の形も共有しやすい。

 

ところが家族は利益で結ばれた共同体ではないから曖昧で、父・母・子供といったパーツの“よいパーツの形“は家族によって違う。

 

本来家族ごとに異なるはずの父や子といった家族を構成する各パーツに“よいパーツ“という共通幻想が生まれやすいのは、会社のような共通利害と目標で結ばれた組織にどっぷり浸かっているとき。

 

父と子という標準からちょっと外れた家庭であるクレイマー家の場合は、そのままあるいはそこに足す形が望ましく、父と子をバラバラにして新しく組み直すのは、パーツの良さを損ねることにしかならない。

 

そう判断した映画はだから公正で、見た目はちょっとアレでもゴージャスでも豪華でもないけれど、あのフレンチトーストはあれでいい。

 

パパとママと僕からパパと僕になって、ママはママの彼氏と結婚して僕とはパパの違う弟か妹ができて、パパもパパの彼女と結婚して今度は僕とはママの違う弟か妹ができて、だから家族の写真がいっぱいなんだでニッコリ笑いながら、自身の息子か娘の写真を引っ越してきた新居に飾る。

 

その新居はパパから相続した(※勝手に持ち家と想定)、かつて僕と二人で暮らしたマンハッタン近くの好立地のアパートメント。

 

という未来を迎えられたら、開発余地の限られた都会に祖父母に代わるバッファーとして戻ってくることのできるホームを用意できたと。いうことになり、標準とは異なる家庭に育ったとしても、幸福に年齢を重ねられた形になるんだと思う。

 

意図的にママの彼氏・パパの彼女しか想定していないけれど、性差の垣根が揺らぎ、女性らしい男性・男性らしい女性が増えたとき。

 

パパの彼氏・ママの彼女・僕とは血縁関係のない兄弟姉妹の誕生という選択肢もあり得ることになり、状況がさらに複雑になるとビリーのような子供のアイデンティティーはさらに揺らぐことになる。

 

多様性のある社会であっても難なく順応できるのは、早くから多様性に触れていた方。だから、多様性に対する理解があると見做されると、多様性に対する耐性を早くから鍛えられることになる。

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(抹茶入りフレンチトーストに黒豆とバナナ、甘くない生クリームで飾った自分史上最高傑作のフレンチトースト)