クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

いってらっしゃーい

鰊のオイル漬けをオイルソースごとフライパンで香ばしく焼き、鍋はだからお醤油をチョットだけ回し掛けて、大根おろしを盛ったご飯の上にトッピング。海苔や葱、あるいはカイワレなどを彩りに添えると、オイルサーディン丼をアレンジしたオイルヘリング丼の出来上がり。

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オイルサーディン丼を初めて知ったのは、当時人気だった女流作家のエッセイで、文字だけを頼りにテキトーに作り始めてからとっくに四半世紀は過ぎている。

 

家庭で簡単に出来るレシピだからか、カフェやレストランで見掛けたことがあるのは一度だけ。確か、神楽坂近くの小さなカフェだった。

 

油漬けという調理法あるいは保存法は、塩漬けや砂糖漬け、あるいは糠漬けよりもきっと新しい。新しい食材だから、色々な使い方をされずに例えばお酒のおつまみといった狭い使い方しかされてなかったんじゃないかと思う。

 

酒のつまみでは酒呑みの間にしか広がらず、酒のつまみだとニッチな食材だったものがご飯にも合うことが知られ、ご飯にも合うなら麺にも合うしピザにも合う。と、家庭のご飯の洋食化が進むとともに、ニッチだったものがニッチとは言えないような食材にまで成長したんだと思うと、楽しい。

 

現在に置き換えると、水煮や味噌煮以外のバリエーションも増えた、鯖缶もそうかも。

 

成長を見守るのは楽しいから、成長を見守るという感覚は購買に繋げやすく、購買に繋がりやすいからより大きなマーケットにも出しやすい。

 

グローバルに繋がりやすいのは、ローカルからいってらっしゃいと快く送り出せるもので、苛烈で厳しいグローバルな競争に快く送り出せるのは、ローカルに対して苛烈で厳しかったものの方。

 

苛烈で厳しいものがローカルから切り離されると、ローカルに残るのは優しい世界。だから、快く送り出してもらえる。

 

酷いことしやがる。

 

ローカルな世界にグローバルが接近した時に起こるのは往々にして残酷な出来事で、植民地主義はその最たるもの。

 

酷いことの上に築かれた新しいものは、酷いことを見てるしかなかった人々からはソッポを向かれがちで、ローカルなマーケットや販路からも零れ落ちがち。だからローカルなものであっても販路やマーケットはグローバルに求めるしかなくなって、ローカルがグローバルと直結し、出自はごくローカルなものがグローバルマーケットでそれなりのポジションを占めるようになるんだと思う。

 

本来味覚は保守で、保守に傾くのはライフスタイルやライフスタイル由来の市場の存在が大きいからで、食生活が大きく変わるのは、ライフスタイルが大きく変わった時。

 

例えばレシピ本。今では2人前がスタンダードで、4人前だとちょっと古く、1人前だとより新しく感じるのは、変わったライフスタイルに合わせているから。

 

ライフスタイルはすでに変わっているのに、市場や市場を支える販路や販売網は変わらないまま、そのしわ寄せを生産者、供給の側にだけ寄せると酷いことが起こりがちで、需要のないものを作らされ、作ったものは廃棄が許されずに自己消費が義務付けられたりして、酷いことが誰の目にも明らかになる。

 

その昔、グレープフルーツの輸入やあるいは関税が引き下げられるかで自由化されて、安価で食べやすい食材になった時。ミカン農家が可哀想だからグレープフルーツは食べる気がしなかったという声を聞いたことがあるけれど。

 

可哀想で柑橘類の需要が減って、市場がシュリンクするともっと可哀想なことになる。

 

グレープフルーツは、自分で食べやすいようにカットして食べるもの。そう思っていたので、食べやすくカット済みされたグレープフルーツのコンポートを初めて見た時は、なんて便利なんだろうと思った。

 

便利だと思ったけれど、重宝したのは忙しかった時だけで、時間に余裕が出来ると工業製品よりも自作する方を選び、フレッシュフルーツそのものをより好みするようになる。

 

可哀想で動く市場と、可哀想で動く市場の力学に左右されて工業製品と農産物と。一次産業と二次産業を行ったり来たりする生産者サイドと。

 

感情に左右される環境下で、誰が最もちゃっかりしっかり儲けているのかを知ることは、ものすごーく良い経済のお勉強になってお金の勉強になるはず。