クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

内と外と枠。

方言は、内と外をわける。

 

外部から来た人間を見つけやすく、内部の話も漏洩しにくいものだから、内と外の隔たりが大きいあるいは大きかった時ほど方言の存在感も増す。地理的には近いのに、近いとは思えないほど使うお国言葉が違っていたのなら心理的には遠いってことで、だからやっぱり隔たりがあったということになる。

 

江戸時代の、地理的にも離れた藩に生まれ育った人間同士が、すんなりコミュニケーションできたかどうかというと怪しいもの。それぞれのお国言葉を標準語的なものに直してからでないと、すんなりとはいかなかったんじゃないかと思う。

 

これは好き。あれいいよねといった、単純な感情の発露でさえ難しくなるのは、単なる肯定の意思の表明でさえ否定に繋がるのかもしれないという、ダブルミーニングに気付いた時。

 

わが方では、単に肯定でしかない。わが方ではない方では、単なる肯定は否定の意味を持つのかもしれないと余計な知恵がつくと、単純だったものが複雑になる。

 

複雑になると、単純にいいねや好きといった肯定の意思を表明する代わりに、なぜいいと思ったのか好ましいと思うに至った思考過程を縷々綴って、肯定の意思表示とするようになり、話が伸びてデータを食う。

 

話が伸びても一向に構わないのはストレージに余裕があるからで、余裕がないと話は長くならない。

 

大人数がよーいドンで一斉にゴールをめざした時の解答はひとつで、可能な限り明快である方が望ましい。そうじゃないと、採点しづらくてしょうがない。問いの長短にかかわらず、答えあるいは応えは短くてもよくて、短い答えは間違えようがないから誤採点の可能性も減る。

 

問いの長短に関わらず、答えには長文が要求される。例えば小論文のようなテスト形式は、絶対とはいえない相対的な能力を計りたい時向き。相対的だから、採点する側の誤採点の可能性も、絶対評価に較べたら増えるに決まってる。

 

絶対評価は、ひとつしかない明快な解に、誰よりも早くたどり着く競争だから、解を求めて競争に参加する人数が増えるほどに、解にたどりつくのも速くなる。

 

競争に慣れて、誰よりも早く解にたどり着けるようになったとしても、ナーンダという感想しか持てない解でしかなかったら、解を解いている最中のような情熱は、長くもたない。

 

なりたいと思っていたホニャララになったあとで、一体どうするの?みたいなもので、解にたどり着いた後に始まるのは相対的なもの。

 

相対的だから、いいと思う人もいればいいと思わない人もいる。

 

100%肯定、100%否定。あるいはそのどちらでもない。絶対ではない反応のなかから、何を選ぶのかも相対的で、そこに絶対はいらない。

 

例えば、天よりも高くそびえるバベルの塔を想像した時。天よりも高くという目的で一致団結した姿は、下から見上げると建設的な挑戦で、上から見下ろすと冒涜的行為。

 

上から見下ろした時と、下から見上げた時と。違う感想が出るのなら相対的で、上でも下でも両者の意見が一致していたら絶対的。上と下しか見られない環境を変えて、右や左も見られるようにするのが、枠の外に出ること。

 

単純だったものに何かを足すと、複雑になる。寄ってたかって大勢で一斉に何かを足すと、複雑化するのも一気。一気に複雑になったものは、また大勢で寄ってたかって足したものをひっぺがすと、単純になるのも早い。

 

余裕があると話は長くなりがちで、長くなった相対的な話に単純な感情の発露以上の複雑な感情を表明したかったら相応に複雑で長くなるから、長丁場。長丁場に耐えようと思ったら、内でも外でも結局は余裕たっぷりなものしか残らないし残ってないという、とても単純なことなのかも。かもかも。