クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

適切な距離

自己責任で追い詰められた個人は、慈悲にすがる。

 

具体的な慈悲の形といえば宗教で、伝統的なものから新興のものまで。古今東西宗教と名のつくものもよりどりみどりで、バラエティ豊富。つかず離れずで宗教と適切な距離を保ちたい側は、だから過剰に個人を追い詰めたりしない。

 

自己責任で過剰に個人を追い詰める、何らかの主義が鼻につくほど過剰に表に出たものもいってみれば宗教の一種で宗教的だから、一見水と油のように見えても結局は一緒。結局は一緒だから、いざとなった時のセーフティネットとして機能してる。どちらかが危機に陥った時はどちらかが救いに現れ、互いに補完しあっている。だから、セーフティネット。一方的に、どちらかがどちらかをセーフティネットにして、いいようにしてることもあるんだけどさ。

 

南無阿弥陀仏に南無妙法蓮華教以下略で、それ以上知らないし言えないのは“サビの部分”しか知らないから。

 

物見遊山で神社にも行けばお寺にも行くけれど、神妙な気持ちでお参りするのは家族の場合だけ。クリスマスにその他、季節ネタは外来の宗教由来のものであっても生活に取り入れ季節感を楽しむのが、宗教とはほどほどのおつきあいを具体化した姿。

 

宗教とはほどほどのおつきあいを体現した姿が一般的になったのも、言ってみればWWⅡ以後の戦後教育の賜物で、宗教的なあるいはあからさまに狂信的な主義に殉じて無駄死にしたしさせられた、多数の犠牲を生んだ反動としてそうなっている。

 

それ、もうほとんど宗教じゃん。という極端な視野狭窄に嫌気がさすと、ほどほどがいちばんと、だいたい正気に戻る。

 

悪逆非道な蛮行を、キレイな言葉とシチュエーションに置き換えて、賢しげあるいは意地の悪さを剥き出しにして語ってると、みっともないしソッポ向かれる。キレイな言葉とシチュエーションに欺かれる状況そのものを、嘲りの対象にして見世物にすると反感買って、その種の見世物そのものが成り立たなくなる。

 

その一方で、キレイな言葉とシチュエーションが、そのままで通じる見世物があると、どうしたって多数の人は単純なそちらの方へと流れる。

 

単純なものを複雑にするか、複雑なものを単純にするか。

 

単純なものから複雑なものを好むように進化した群れと、複雑なものから単純なものを好むように進化した群れは、進化のスピードも方向性も異なるから、もとは一緒でも再び一緒になるには時間がかかるか、あるいは永遠に違う速度のまま進む。

 

いかようにもあるいは幾通りにも解釈の余地ができると、複雑になり過ぎて単純に楽しめなくなる。単純には楽しめないから単純に楽しめた昔、例えば何らかの古典に回帰することはあるんだけど、古典といっても例えば文学作品的な古典には、人権意識もコンプライアンスも含まれていない。

 

現在のルールというフィルターを通過してはじめて、人権意識やコンプライアンスが根付いた現代にも通じるようになって、古典が普遍的なものになる。

 

複雑なものを単純にする行為には、現代には通じない部分をバッサリ切る意味もあって、バッサリ切ったらどうしても単純になる。

 

単純なものを複雑にする行為は、そもそも最初から現代には通じない部分がないか少ないから肉付けしての増量も簡単で、簡単だから肉付けして複雑にすると、コッテコテで濃厚になる。

 

単純なものか、複雑なものか。ついでにいえばどちらの方がより利益になるのか。注文に自在に応えられる器用な人は、どちらに転んでも困らないようにできていて、困らないように鍛錬してる。練習の場所には困らないよう、広大な練習場所を常に確保する態度は、どう考えても勤勉を奨励する人のもの。