クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

合意が前提

三寒四温というほどの、規則性があるわけではないんだけど。

 

暑くなったり寒くなったりが例年より不順に感じるのは気のせいでもなくて、遅い桜と早咲きのライラックが一緒に咲いている。

 

梅と桜が一緒に咲いていても、特に驚かない。だけどライラックと桜、それも八重桜のようにそもそも花期の遅い品種でもない桜とライラックが一緒に咲いていると、ちょっとへぇ。

 

梅と桜、ライラック木蓮。足元を見ればタンポポムスカリにチューリップで色とりどり。ざっくりまとめれば春に咲く花が、本当に一度に一緒に咲いている景色は、やっぱりもの珍しい。

 

ジュリア・ロバーツリチャード・ギアといえば、プリティウーマンのゴールデンコンビ。彼ら二人を主役に据えた映画を、もう何年も前に見たことがある。

 

この二人を主役に据えた時、観客が期待するのはシンデレラストーリーで、設定はやっぱりそんな感じだった。

 

カントリーサイドで生まれ育った、素朴でがさつな(活発とも言う)女性と、都会から来た洗練された大人の男性。結婚式の直前あるいは最中に、何度も逃げ出してしまう女性としてゴシップ的に扱われていた女性と、好奇心にかられて実物を見に来た男性が恋に落ちる。

 

土壇場で何度も逃げ出す女性が、次こそは無事にゴールインするのかどうかが映画の見どころで、今でも印象に残っているのは教会でのふたりの結婚式シーン。

 

都会にしかない職業に就く、都会からきた男性側の出席者は男女ともにみな黒い服にサングラス。対する女性側のカントリーサイドの出席者は、例えていうならツイードやチェックのシャツにカウボーイハットや麦わら帽子で、正装だけどあか抜けない。

 

その対比があからさまで、現代からすると“政治的に正しくない”印象が強調されるせいか、見直そうとした時にはデジタル化されてなかった。(今はどうか知らね。)

 

結婚式から何度も逃げ出す女性の姿は、相手に対する好意よりも、まったく異なる環境や環境の変化を受け入れることに対する拒否反応のようにも見えた。

 

都会にしかない、都会でしか成立しない職業=カントリーサイドとは不連続。不連続だから、先祖代々の広々とした立派な家や土地とも不連続で、快適な環境を捨てて、快適とは言えない環境への移行になるから、花嫁は何度でも逃げ出す。(相手は常に、都会から来た相手とは限らないけど)

 

“都会に憧れる若い女性”が常識だった都会から来た男性からすると、カントリーサイドの女性の振舞いは非常識。非常識だからゴシップ的に扱われるけれど、よーく考えたら時代を先取りしてる。

 

広々とした先祖代々の土地を離れ、例えばNYのような都会に住んだ時。思い描く都会的なスペースはごく限られている。行動範囲が広がるほどに、都会ならではのとても都会とは思えないスペースとの遭遇頻度も増える。

 

だったら、最初から広々のびのび見渡す限り緑の草原で、山や湖に恵まれたコンフォートスペースたっぷりの生地での暮らしを選んで、一体何がいけないの?となる。

 

どこが悪いのかといえばコンフォートスペースのひとり占めで(ほんとにひとり占めではないけれど。。)、都会の家一軒は、都会ではない場所での広大なスペースとだいたい一緒。

 

足して2で割ればちょうどよくなるけれど、足すにも割るにも双方の合意が必要で、相手への好意が環境の変化に対する恐れや拒否反応を上回らない限り、合意に達することは難しくなる。

 

スペースをシェアするにはそもそも合意が必要で、シェアが前提となったスペースの割り当てや有り様に大きな食い違いがあると齟齬も大きくなって、合意形成そのものが破綻する。

 

広々とした広大なコンフォートスペース、先祖譲りだから取得コストゼロ。そんな場所を出て、もっと見劣りする場所をコストをかけて取得してシェアへと促すのは、シェアへのより強い動機で、現代、特に現代の日本だったら水道光熱費に通信インフラに通信コスト。

 

シェアするならスペースよりコストで、大勢が同じものを使うほどにコストは下がってクオリティが上がる。大勢が同じものを使ってるはずなのに、コストは上がってクオリティが下がるのなら、シェアしているのはコストではなく別のもの。