クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

昔々あるところに。。

ひと夏のできごとを語る時、宗教の目やフィルターはいらない。むしろ邪魔。

 

夏!海に山!開放的!!!リゾートともレジャーとも無縁な日常ではまず出会うことさえないカッコイイorキレイな人と仲良くなった!フラれた!なのに子供ができちゃった!!!まだ未成年or稼ぎも少ないのにどうしよう?

 

という単純なケースでは原因と結果が明らかで、必要なものは宗教や道徳より経済観念で、若年の子供に子供が生まれても無問題な経済的基盤があるかどうかの方がより大きい。だから経済的基盤が薄いと宗教による道徳心を鍛えて、不測の事態を招かないよう用心する。

 

複雑なケースはこんな感じ。

 

夫は多忙で、多忙の裏返しで経済的には恵まれた妻が夫より若年の男性と不貞関係に陥り、妻の不貞行為中に目を離した娘が事件や事故に巻き込まれてしまう。娘の喪失と妻の不貞という二重苦に苛まれた夫が妻に罰を与える。

 

事件や事故で娘を亡き者にした、加害者男性の娘を養女に迎え、やっぱり娘を失くして傷心の妻に育てさせ、後年その事実を知った妻が養女に辛くあたり、罪が子供(次世代)にまで及ぶような一体何やってんだかという状況を用意する。

 

原因と結果が非直線的で、長期に及んだ。という時は宗教という目やフィルターでも通さなないと、説明がつかなくなる。

 

妻が養女に辛くあたるに決まっている環境を用意しておきながら、養女に辛くあたる妻を非難することで娘の喪失と不貞という二重苦に対する罰を妻に与えている。

 

その行為を説明するのにキリスト教作家は原罪とかなんとかキリスト教的解釈を与えていたけれど、宗教という目もフィルターも取っ払うと、

 

そんな罰を与えるお前がおかしいあたりに落ち着く。

 

懲罰を与える側=夫と懲罰を受ける側=妻と養女。両者を比べた時に罰を与えた側の異常性が露わにもかかわらずいつでも罰を与える側にいるのなら、宗教を持ち出すとわかりやすい。

 

妻と娘。愛情を注ぐ相手を失い裏切られた。裏切りは宗教的タブーをも同時に犯しているから罰は重くていいんだ。

 

という理路が罰を与える側に成立していることは、宗教という目やフィルターを通すと誰にでもわかりやすくなる。

 

宗教という目やフィルターを通すと、実社会の法体系が宗教がらみで歪んで不法行為が頻発するから経済が育たず宗教ばかりが肥え太るありようもわかりやすくなる。同時に金は出してもいいが口は出すなという受け取る側の身勝手さも明らかになって、“違う世界の出来事”として切断処理しやすい。

 

二重苦三重苦が脆弱な個人を襲った時、悪魔憑きや狐憑きが生まれやすくなる。


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悪魔憑きや狐憑きと対峙するから、平時は目立たないけれどバッファーたり得ている。そういう存在との距離をどう保つのか。

 

宗教という目やフィルターを通したフィクションを受け取る時に、備えていると安心な視点は、金を出す側と受け取る側。宗教によって発生した(あるいは発生する)お金や経済活動が、今どこにあってどうなっているのか。そのお金や経済活動を今欲してるのは誰なのか。という視点であって、そういう目で眺めると、金は出すけど口も出すにも、金は出してもいいけど口は出すなのどちらにも惑わされにくくなる。

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近頃はどうだか知らないけれど、キリスト教作家というカテゴリーはかつて確かにあって、その看板を背負って登場するのはだいたいが才女や才媛だった。その一方で特にフィクションの分野でキリスト教ではない宗教、例えば仏教の看板を背負って登場するものは破戒僧や破天荒に波乱万丈系人生を背負ったものが多かった。

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そういう棲み分けそのものが戦後の空気で雰囲気で、私見だけど神道系はもっとも冷遇されていたような感覚を持っている、これは昔々のお話。