クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

ムダでヨユー

気付けばどんぐりコロコロで、地面にはなん種類ものどんぐりがゴロゴロ。

 

朝晩はすっかり寒くなり、寒くなったとはいっても市内では紅葉はまだ先。先なんだけど、すでに銀杏の実まで落ち始めていて、どんぐりと違ってこっちはあんまり嬉しくない自然からの贈り物。待ちかねている人もいるかもだけどさ。

 

ものの価値がわからない人に好きなように使ってもらうと、だいたい大いなる無駄が生まれる。

 

例えば近頃は品薄だという、高級なウィスキーの原酒。ものの価値がわかってる人なら、ちびちびと少―しづつ味わって楽しみそうなところ。ものの価値がわからない、あるいは飲めない人にその使い道をゆだねると、じゃばじゃばと盛大に使ってアルコールたっぷりのケーキを作るだとか、料理酒代わりあるいは水代わりに使うという無駄なことがしたくなる。

 

飲めないけど、転売して儲けましょうと考えるのはものの価値がわかってる人で、だからその行為には無駄がなく、無駄がないから余裕や余剰がゴリゴリ削られてゆく。

 

“個人に対するプレッシャーがきつく、セーフティネットが脆弱”になるのは、結局のところ無駄を嫌うから。無駄を嫌って余裕や余剰をゴリゴリに削っていくと、結局は個人に対する風当たりばっかり強くなる。

 

逆に言えば個人に対する風当たりがきつくなるほどに、個人ではないものに対するプレッシャーはゆるく、セーフティネットも盤石になっていく。“個人に対するプレッシャーがきつく、セーフティネットが脆弱”というフレーズはそもそもどこかで見掛けたもので、オリジナルでも何でもないんだけど。

 

無駄も余裕も余剰も、享受しているのは個人じゃない方ばっかり。

 

という場所や土地なのに、個人の時代来るとか錯覚させるのは、結局は個人ではないものに対するプレッシャーをゆるく、セーフティネットも盤石にするための捨て石だから。

 

無駄も余裕も余剰もしっかり抱え込んでる側は、なぜ無駄や余裕に余剰がたっぷりあるのかわかっているし知っているから、わざわざ削ったりしない。削るのは、別のもの。

 

あれは一体何をやっているんだという大いなる無駄使いは、無駄使いすることでセーフティネットをより厚く盤石にしようとする姿。無駄使いは悪で節約は正義で、貯まりに貯まったお金。せーのでみんな一緒になって、セーフティネットをよりぶ厚く盤石にするために使うと、個人ではないものに対するプレッシャーも、よりゆるくなる。

 

一年365日、休むことなくお金のことを考え続けていると、お金のより有効な使い道も思いつくってもの。何のために、お金を貯めるのか。目的があって貯めたお金は、無目的に貯めこんだお金以上によく働くのかも。