クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

古色蒼然

アレ、古くからあるものでも由緒正しいものでも全然ないんだけど?

 

というものを、古くからあって由緒正しげに見せる手法のひとつが“古色をつける“。新しいものなのに、わざと汚したり傷をつけたり。さもそれっぽく偽ってみても、科学鑑定にかければ底の浅い贋作だったらすぐに見破れる。 

 

騙す気満々で、素材から偽物を用意周到に準備されると、見破るのもそれだけ難しくなる。絵画で言えば、額縁や絵の具。その時代にはなかったはずのものが含まれていればすぐに見破られるからと、素材まで時代を遡って“っぽい“ものまで用意するようなら本気で騙しにかかってる。

 

単なる道楽で、そこまでやるの???

 

と、ドン引きするようなことができるのもお金が動くからで、鑑賞に値するからと昔から取引されてきたようなものは、贋作の歴史もそれだけ長くて深い。

 

誰もがすぐに、読み下しできるものでもない。例えば古文や漢文で、もっともらしく顕彰されているものは、わかる人だけに向けたもの。わかる人だけにわかればいいから、誰もが気付く場所にもおかず、誰もがわかるように平易に表現する必要もない。国際共通語、例えば英語に翻訳するなんて、もってのほか。

 

もってのほかだったものの周囲がインターナショナルに包囲され、インターナショナルにそぐわなくなった時でもきっとそのまんま。ほどよく“古色を帯びたもの”として、素材にでも使うのがリユースな循環型社会。書かれてるもの、表現されてるものなんてどうだっていい。

 

表層に現れてるものなんて、書き換えや置き換えはもっとも簡単で、本当に欲しいものはキャンバスや額縁にあたるもの。

 

レプリカは簡単に用意できるけれど、中身が現代のものだったら、さして古いものではないとすぐに見破れる。簡単には見破られないよう素材にまでこだわって、素材まで遡って凝った贋作を作ってるようなら、過ぎた道楽かそれとも道楽を超えた何かでもあるのか。

 

もはや見分けるのも難しい、何のためなのかもよくわからない作業は、だいたいは懲罰の一環なんだと思っておけば間違いなし。

 

もんのすごいお金持ちでカリスマで、カリスマだから後継者が選べないままファミリーを束ねているようなケースでは、うっかり死ねない。うっかり死ねないから、”後継者争い中”というゲームを存続させるためやその他の理由で、すでに亡くなってる人のダミーを何体も用意して周囲を欺き続ける。

 

というシチュエーションは、高齢化社会を予見して準備してきた人たちの間では、きっとすでに考慮済みに違いない。あぁ渋茶が美味しい。