クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

いつも身綺麗なのは、○○のおかげ

見られることがお仕事の人たちは、いつも身綺麗でお洋服も日々変わる。

 

毎日お洋服が変わっても無問題なのは衣装提供があるからで、衣装提供がある場合はちゃんと番組の最後に、衣装を提供している会社の名前が出てくる。だから毎日とっかえひっかえしてるお洋服は、自前じゃないんだな。。という目で見てる。

 

地上波やその他、おもにテレビでのことなんだけど。

 

見られるのがお仕事となり、日々大勢の人の目に晒されるようになった時でも、いつも同じお洋服でまったく動じないなら“よそはよそ、うちはうち“が根付いてる。逆に、日々大勢の人の目に晒されるようになったら、よそのようにキレイにしなくっちゃ。よそのようにお洋服もとっかえひっかえしなくっちゃとなるなら、”よそはよそ、うちはうち”が根付いてるとは言い難い。

 

よそのようにと願えば、散財が始まる。

 

臨時出費の頻度が高く、臨時出費が時にべらぼうに高くつくもんだから、財布の大きさ相応に引き締めてコツコツ貯めてきたお金。よそを意識するようになると、支出も増える。増えた支出を補ってくれる、どうぞこれ使ってくださいと何かを提供してくれるスポンサーでも現れるならともかく。

 

スポンサーが現れることを願い、スポンサーの目に触れることを願って無計画に露出を増やせば増やすほどに出費だけが嵩んでゆき、嵩んだ出費が経済を回す。せっかくコツコツ貯め込んだお金も、そうやって巻き上げられてゆく。

 

世界中から観光客が訪れるほどの観光地でもないのに、露出の機会だけが増えて“よそはよそ、うちはうち”で突っ張れないと、つけ込まれるだけ。とっかえひっかえのお洋服に相当する、アレやコレ。今のままで特に支障がないのなら支障が出るまで使い倒し、使い倒すいつかに向けてコツコツ貯めることができないのは、我慢してこなかった証拠。

 

我慢を知らない、我慢の経験さえないような人に“大事なお財布の番“を任せると、だいたい帳尻が合わなくなる。帳尻が合わなくなるに決まってるのにそういうポジションを敢えて任せるのは、試練でもチャレンジでもなんでもなくて、単に破滅を願ってる。

 

得手不得手はあるもので、破滅や破綻したあとなら、イッキイキ。

 

という自身の強みがわかっているとつい強みを見せたくなるものだけど、見せたいあるいは見て見て!という欲求に応えて、都合よくスポンサーが現れるとは限らない。立派なハコモノを建てるコストよりも、立派なハコモノを維持し続けるランニングコストの方が高くつくようになると、ハコモノそのものは別に立派じゃなくてもいいじゃない。となりがちで、立派なハコモノが必要な理由探しが始まる。

 

立派なハコモノが必要な理由が浅いと支持は広がらず、立派なハコモノの添え物は、だいたいが面白味に欠ける文句のつけようのないつまらないものになっていく。

 

半袖だとすでに肌寒い。夏ということばさえ、今年ももうそろそろ使えない。