とうてい許されないことをしでかしたあとで、許さない相手を不寛容と断じてなじるのは、結局はたったひとつのことしか言ってない。
俺・私の言うことを聞け。
それ以外に解釈しようのない、唯我独尊がおさまらない人は、たった一人しかいない王国にでも閉じ込めるのが吉。俺・私の言うことを聞けと、かましたスピーチが永遠にこだまする場所にでもさ。
スプリング・エフェメラルと呼ばれる山野草系の可憐な草花類は、名が通り見慣れた園芸種に比べればもの珍しいだけに、見掛けると新鮮。春あるいは初夏を告げる季節の風物詩でもあるから、いくら可憐でもの珍しいとはいえ、“季節“を我が物にしようとは思わない。
ところがいるんだな、“季節”をわがものにする人が。わがものにするだけでなく、転売する人もいると知ったら、ただ驚く。
百名山ブームがどういうものだったのか知らない。知らないけれど、人気になってカジュアル層が押し寄せたあとに山野草がごっそり盗掘され、盗掘に嫌気が差してついには入山制限まで設けるようになったと聞けば、しょうがない。
珍しくて人の目を楽しませてくれるものは、できるだけ保護しましょと考える人と、珍しくてもの珍しいものを見掛けたら、わがものにして売り物にする人の間には深い溝がある。性善説では維持できずに性悪説に転じるのは、到底相容れない人種が同じ場所に集ったとき。
人が増える一方で、人の手による仕事が減っていくばかりのとき、減っていくばかりの人手に頼る仕事を増やすのは、善だと考える人はきっといる。凸凹をフラットにする行為は、概ねいいことで、人手に頼る仕事を増やす行為も言ってみればその一環。
でもさ、労働市場には決して入れてはいけない、ルールを破りまくる人も中にはいるわけで。ルールを破りまくるだけでなく、率先垂範して掟破り、例えて言えば強盗の方法を知らなくてもいい人に教えるようになり、教えたのに強盗しない奴こそ悪だと集団のルールさえ変えられたとき、改悪されたルールに従う人を増やす行為は善か悪か。
人を増やすときには、そのくらい考えてからにしないとさ。
性善説で成り立っていた場所に、率先垂範して強盗やゆすりたかりの方法を伝授することこそ善なんだと説く人が現れたら、性善説なんてあっという間に崩壊する。
相容れない人種を無理に同じ場所にとどめると、まずは容れ物から崩壊する。崩壊に懲りた人がこしらえる新しい容れ物には、相容れる人種しか居られないとなって残念がるくらいなら、最初から崩壊するような真似はそもそもしないわな。
もっとも得をした人が犯人、そもそもの元凶なんだと、たいていはそう考える。