クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

スクスクのびのび

暑過ぎず、寒過ぎず。人にとってちょうどいい天気は、植物にとってもちょうどいいはずと、天気がいいとイソイソと育てている植物にも日光浴させる。日当たりを好む植物も、冬季は寒さや風が気になるから外には出せない。

 

スクスク育てと思うから、スクスク育つようにと日にも当てる。人も一緒で、冬が長いと日差しは貴重。だから貴重な日差しを求め、好天に恵まれるとイソイソと外に出る。

 

スクスク育つ環境にあるものを、お前はスクスク育たなくていいと頻繁に罵声を浴びせてストレス環境におき、時には日差しさえ遮って不健康な状態へと誘うのは、「育ち損なえ」という何よりも雄弁なメッセージ。

 

非言語的コミュニケーションは、直接言葉を交わす言語的コミュニケーションよりも、はるかに直裁に言いたいことを、「誰が」という主語抜きで伝えてくる。「誰が」という主語なきメッセージなんて無理無駄無用の最たるもので、要するに暇つぶし。

 

君の演技ならラズベリー賞連続ノミネート間違いなし!!!つまり大根という人にペンを持たせてみたら、あららオスカーもびっくりの文才が開花した。なんてことはあるはずない。最終的な表現が演技になろうが文章になろうが、そもそも感性に由来するものである限り、感性に乏しい人に何やらせても結局は大根。

 

あの人、見た目は本当に素晴らしいんだけど、何しろ大根なんだという人にピッタリなのは、セリフなし。額縁の奥でミステリアスに微笑むだけで、ひと言も喋る必要のない役や、あるいは短いセリフしか必要のない役。憂鬱そうに頭かきむしってるだけでも、いいかもしれない。大根にたくさん喋らせたら、すぐに大根だとバレちゃうから。

 

感性が試される、感性がモノを言う世界なんてめざしたこともない、大根と分かり切ってる人に大根役をあてがうのは罰ゲーム。感性を必要としない、理非善悪しか求められていない世界で、間違った用法用例を用いた罰。なのかもね。

 

宗教と資本主義が嫌いなものはなーんだ。という問いがピンと来ない人は、気付かないうちに宗教も資本主義も嫌いな人やものに取り込まれる可能性が、より高くなる。最初は親切な人や人たちだと思ったのに。。何でこんなことやらされてるんだろうと少しでも思った時には、もう遅い。

 

誰かや何かが育ち損なう、「育ち損ない」が増えて嬉しいのは、すでに育ち損なって不健全路線まっしぐらな人たち。スクスクあるいはのびのび育てと思う相手を、「育ち損ない」育成ゲームに参加なんて、そもそもさせるわけがない。

 

紫外線も強かったに違いないけど、総体では好天に恵まれた、いい連休だった。長かったけどね。