クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

恥と権力

桜は満開で、ウグイスがホーホケキョと鳴く。あぁ調子っぱずれ。

 

より大きな反響を集めるのは、ネガティブなネタかポジティブなネタか。どちらがより好まれるかで、その場の性格もすっかりあからさま。

 

パンのみにて生きるにあらずが人間なら餌につられるのは動物で、期待された以上の役割を演じて大きなご褒美を狙うのは、よく躾けられた動物以上のなにものでもない。

 

過去の大きな出来事もすぐに忘れられてしまうから、繰り返し警告して注意喚起しないと、都合よく忘れられてしまう。世界が西と東に分かれていた頃、時には死を賭して西側へと亡命する人が後を絶たなかったのは、自由を求めてたから。自由なき生活は死に等しいから、死を賭しても亡命する価値があり、自由にはその価値があった。

 

自由を売り渡す代わりにパンを得た人には、馬の耳に念仏で豚に真珠で猫に小判で犬に論語なんだけどさ。

 

権力者に恥をかかせると、何しろ権力者なだけに、恥をかかせたシステムそのものを変えてしまう。百人千人の一般人が恥をかかされても事態は大して動きゃしないけど、権力者なら話は別。一人の権力者が恥をかくことで、百人千人の一般人が今後は恥をかかずにすむなら、一人の権力者に恥をかかせることを選ぶシステムは、結局マイノリティにはより厳しくマジョリティに優しい。

 

数の力で押し切ってるだけだから。

 

恥をかかせるのが権力者ならまだ民主的で、権力者でも何でもないマイノリティに多数が詰め寄って恥をかかせるのなら、単なる私的制裁でしかない。私的制裁がシステムとして温存されているならそこは、西部開拓時代も真っ青になるほどのフロンティア。

 

フロンティアは私的制裁が横行する場所のことで、法治が整うまではそのまんま。法治が整った場所では私的制裁もできないから、私的制裁を好む人たちは法治からは自主的に遠ざかり、ここはフロンティアだからと彼方をめざす。