1800年代の初頭、ウィーンで会議が踊り終わった後のフランスの片田舎で、とある青年が手にしてる本が我が闘争だったら、時代考証の面で著しく信頼に欠ける。
そこはやっぱりセント・ヘレナ日記であるべきで、ナポレオン崇拝がバレたら没落した英雄と同じく厳しい処遇が待っていた世情とはいえ、英雄に憧れるのが若者。ダメと言われても読むから、当時のベストセラーだったっぽい。
ガリア戦記と違って現代にまで広く伝わってるとは言い難いのは、そこには歴史的に見るべきものが少ないからか、それとも没落した英雄という事情ゆえか。英雄が英雄のまま生を終えた後ならともかく。英雄の座から途中で引きずり降ろされた元英雄を、反動に振れたその後の世の中でどう評価するかは、100年経たないとわからない。
世界史上に燦然と輝くスターに直接取材したという触れ込みの書も、当時においては霊言に取材したものと同じくキワモノ扱いで、歴史的史料にはなり損ねたのか。よく売れたからといって、時の試練にも耐えられるものではないベストセラー事情は、あんまり変わらないかも。
例えばクリスマスが近づき何となくウキウキと浮かれた気分の人たちで賑わうクリスマスマーケットに、猛スピードで突っ込んでいく車を運転する人。あるいは病を抱え、悲観する自分とは違って寿命など気にも留めていない人が行き交う書店に、レモンを爆弾代わりに置く人の心情とは紙一重。
病を抱え、結局はその病が原因で早世してしまう。健康でさえあればもっとやれることも多かったに違いない、発散しがたい鬱屈を抱えた人の目から見た世界だから、健康な人の目から見た世界とは違うものを描いている。
という解釈(あるいは講釈?)込みである種の行動を眺めると、そんなことさえできるしやっちゃうんだから、置かれてる状況あるいは環境が、かなり特殊なんだなと類推できる。
だから環境あるいは置かれてる状況が改善されれば、ある種の常軌を逸した行動もたいていは止む。止まらないなら、それはレアケース。レアケースだから、一般論は役に立たない。
と考えるようになるまでには、ただ事実を事実として読んで理解するだけだったら、たどり着かない。
顔を殴れば跡が残る。だから、殴るなら顔ではなくお腹など目立たない場所という悪知恵が発達した人は、これと狙い定めた相手を痛めつけるやり方もより陰湿で手が込んでいる。ココロの傷は目には見えないから、効果的に傷つけるなら精神を痛めつける方がより効率がいい。
誰かを徹底的に苛んでいる人がもし居たら。なぜ、そこまでするのか。普通だったら、逆に疑問に思うところ。一線を越えた人なら二線も三線もどんとこいで、もう怖いものなんてない。怖いものなしという状態に常にいないとダメな人というのも、考えたら奇妙なもの。
怖いものなしで二線も三線も越えていく人が発してるメッセージといえば、逆に止めてくれ、かもね。