クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

温床

変えられないはずの過去を、変える可能性さえあるのがデジタル革命。

 

紙の印刷物によって配布・拡散された過去も、デジタルでは書き換え可能。みんなで一緒にせーので変えたい過去があれば、口裏合わせるためにもみんな一緒になって手を繋ぎ、ゴールインできた順にデジタル改変が可能。という事態にでもなれば、変えたい過去がある人ほどゴールインにも熱心になる。

 

デジタルは臨機応変に書き換えが可能で、朝令暮改も簡単。

 

国際標準に背を向けて独自路線を突っ走ったところ、国際標準となっている企業からソッポ向かれたとなったら、国際標準に対する信頼も増す。

 

すねに傷持つ人ほどゴールに対する意欲も高まるのなら、すねに傷なんかない、ピッカピカでまっさらの経歴の人ほどそこに居られず、世間一般の標準とはまた別のモノサシを持つ、独自の標準が育つ。

 

わりと昔から。例えば北海道開拓が始まった当初から、新天地であるいは未開の大地で新しい村あるいは独立国家を作ろうと盛り上がる人たちが現れては消えていくけど、あれ不思議。一国二制度は亡国のもとだから、きっと国が嫌いで嫌いだけどそこに居るしかなくて、だから彼らは国にあって国でないものを作ろうとするんだと思ってる。

 

新しい村あるいは独立国家を作ろうと盛り上がる人たちにもっとも足りないのは、村人で国民。

 

王や長に、あるいは大臣など要職を務めたい人は山盛り居ても、一市民あるいは一国民でいいっすという奇特な人は居ない。すでに日本国民でホニャララ市在住の市民だったら、わざわざ国内にあって国でない国の国民や市民に新たになる理由なんてない。義務が増えるだけ。

 

働く場所はある。住む場所も探せばなんとか見つかる。でも、日本国籍だけは持ってないんだ。だから、健康保険や社会保障の網からは零れ落ちている。という人と遭遇する機会が増えるのは、移民国家の別の側面。

 

こなたには労働意欲が高く労働を厭わない人がいて、かなたには人手が足りないけれど利益を圧迫するから人件費は出せない人が居たら、リアリストの考えることはひとつ。

 

その後で副次的に起こる不具合は、誰か、それもその種の人を他人よりより多く抱えることになる、地主に大家さんに任せればいいとなったら、実利を尊ぶ人のとる道もひとつ。つけまわしがダメなら、別の種類のつけまわしもナシな。と、言われる前になんとかしなくちゃね。

 

過去は変えられないから、書き換えも改変も今となっては困難な、紙に書かれたものが逆に重宝する。それも、より多くの人の目に触れることを前提として配布・拡散されるもの限定で。

 

今も昔も、公開情報こそがもっとも信頼できる情報で、ここだけの話がもっとも信頼できないのは、詐欺の温床がどこかを考えてもあからさま。