クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

お休みはいつまで?

一日二日ならともかく、一体いつまで休むのか。

 

春節でアジアの株式市場はのきなみ休場中。中国とベトナムの休場期間は特に長くて、この二国は市場以外のものが国を動かしているんだとよくわかる。市場の論理が国を動かしていたら、こんなに長く休んでいられない。

 

それがどうだというわけではなく、市場が決定権を持つ国と、国や国家的な機関が決定権を持つ国と。世の中には二種類あって、あらかじめ市場の失敗を織り込んでいるのは、当然国や国家的な機関が決定権を持つ方。

 

おおっぴらにお金の話をするのははしたないなんて、今は昔。老若男女がもっともよく食いつく共通の話題がお金だったら、国がどんな看板掲げてもしょせん掛け声倒れ。看板通りにしたかったら強制力を発揮するしかなく、国や国家的な機関が決定権を強めると、市場は立つ瀬がない。

 

立つ瀬がないわりには、ほぼ毎日営業中だとストレスがたまる。10連休しても無問題だったら、市場の存在感はより薄くなる。休みが少なくても高給だったら文句も出ないけど、高給が保証できなくなったら、代わりに休みを求める声はきっと出る。

 

例えば年末年始にお盆休み。家族を預かってくれるところが見つかりませんから休みますと言われるケースが増えたら、その声に耳を貸すのかどうか。子供だったらあと何年と目論見も立てられるけど、大人、老人や病人の場合は未知数。

 

職場との軋轢に疲れた人が、安心して休める職場に移るようになると、職場の流動性も高まって、以前と変わらずとは言えなくなる。

 

市場が決定権を持つ社会か、それとも市場以外の国家や国家的なものが決定権を持つ社会か。

 

お金は交換できなかったら何の意味もない。お金はあっても受け取ってくれる人がおらず、受けたいサービスも受けられなかったらお金持ってる意味がない。お金では買えないものが増えたら、お金で買わなくてもすむように、システムを作り変えるしかなくなる。

 

逆に、お金さえあれば買える、手に入るものの方が多かったら、お金増やせばいいだけの話でシステムは変えなくてもいい。

 

という今日の思考実験、終了。天気はいいけど、その分足元が滑りそう。

 

意味なく長文を書き散らかしてることがほとんどながら、なかには気に入ったものもある。一ヶ月に一度くらい先月を振り返ってみる。

waltham7002.hatenadiary.jp