時と場所。あるいは場合に応じたふるまいを、常に他者にも押し付けてる人は、率先垂範してここぞという時には自ら範を示すもの。祝日に掲げる国旗みたいにさ。
押し付けてるわけではないけれど、いつも説教くさくて表層として現れる現象からそう見られてもしょうがないところは、やっぱり何かしらの配慮をする。
あ、これ配慮知らずのAIあるいはアルゴリズムがやってるんです。という言い訳は、祝日なのに国旗を掲げてないところはどこだと目を光らせる、あら探しが得意勢と真面目に取り合わなくてすむいい口実。特定個人ではなくデータを頼りにするのも、この真面目に取り合いたくない勢と縁を切るためと思えばより納得感もある。
まわり回れば自分に還ってくるという考え方は、想像力が豊かな人ほどそのカバー範囲も広くなるもの。
子供あるいは孫といった直系親族が、もっとも確実にまわり回れば自分に還ってくる投資先という現象は、どう考えても金融商品の敗北。そして、投資先として自分の子供や孫をより愛するという現象は、どう考えても人道主義の敗北。
金融商品が敗北してるエリアでは、直系親族よりも頼りになる金融商品が足りてない。
人道主義が敗北してるエリアでは、金融知識の普及よりも人道主義の啓蒙が足りてない。
足りてないものを足すと、大抵の場合は喜ばれるはずなんだけどさ。この場合はどうなんでしょ。
ふりかえりというのは意外と難しくて、ふりかえるために記録をつけてた人ほどふりかえるのも簡単。20年前の大事件も、もう今となっては覚えてる人の方が少ないから同じような事件が繰り返される。
という趣旨の文章を見掛けたけれど、覚えてる人の方が少ない状況が同じような事件を起こすためには好都合だったら、積極的にふりかえりの機会を奪うと、同じことを何度も繰り返せる。
同じことを何度も繰り返したい人は、積極的にふりかえりの機会を奪い、同じことをもう繰り返したくない人は、積極的にふりかえりの機会をつくる。ふりかえりの機会を奪う人は、手口、マニュアルの独占を狙っているともいえ、その逆に、ふりかえりの機会を与える人は、手口ややり口が広まることを狙っているともいえる。
手口ややり口が陳腐化したあとでは、ふりかえっても大して得るものがなく、ふりかえる行為そのものが陳腐化した手口ややり口の後追いにもなり得てしまうから小休止。ふりかえるなら、ふりかえる手段そのものを別のやり方でやる方が確実。
文字でふりかえる、写真でふりかえると、ふりかえりの方法も色々あるけれど、文字にも起こしにくく写真に撮っても意味のないことにこそ、あとでふりかえった時にも発見があるものかも。
結構長く経済紙を読んできて、最近はビューワーで読んでいる。宗教系の広告なんて、ひと昔ふた昔前は見なかった。スマホで読むと当然その手の広告も見ないから、紙面に慣れた人ほど宗教との接点も増えてることになる。
今日みたいな鎮魂の日に、他の誰が広告出せるっていうのさ???と考えれば当然で、鎮魂の機会が増えるほどに活躍の場が増えるのも、その手の人たち。年取ってくると、結婚式よりお葬式が増えるものだけど、国も年を取るほどに鎮魂や慰霊の日が増えていく。
鎮魂や慰霊の日でも商魂たくましい人たちは、単に商材としてそこに目を付けただけ。という個人の感想は、あとでふりかえった時にはそれなりに有効かもね。かもかも。NHKでは、もう少しで4時間という長大な歴史映画を放送していて、鎮魂のスタイルもいろいろ。