クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

シンプルイズベスト

人工知能でも答えやすい質問あるいはものの言い方を考えることは、日本語が達者ではない相手にどう言えば伝わるかと考える作業と似てる。ってかほとんど一緒。

 

多文化共生社会は、ようするにことばの通じない世界。

 

ことばが通じない相手にこちらの意図を理解してもらおうと思ったら、とにかくシンプルに伝えるに限る。投げかける問いがシンプルなほど、返ってくる答えもシンプル。曖昧な質問はそもそも理解しない、受け付けないとわかってたら、ほのめかしや曖昧な問いかけもしないもの。

 

こちらの意図に沿うような答えを引き出したかったら、問い方を変えるしかしょうがない。

 

超高性能でレスポンスのいい人工知能ならともかく。廉価な普及版に搭載されてる人工知能に期待できることなんて、大してなし。レスポンスの悪い人工知能に問いかけるのも、ことばが通じない外国人に話し掛けるのも、大した違いがないように。

 

あら、これはわかるんだ。と、発見した時には意外な驚きがあって得した気分になれるだけ。

 

万葉集の昔から詠み人しらずの歌があったように、感情をことばに載せて表現する歴史が長かったから、情感たっぷりのことばに慣れてしまっている。だけど、相手が人工知能やことばの通じない外国人だったら、情感をことばから抜いた方が、意図は素早く間違いなく伝わる。

 

はい、よろこんでと言えない感情をことばに込めると、イヤミのでき上がり。

 

その種のささやかな憂さ晴らしが通じるのもことばが通じるから。そもそもことばの通じない相手に、憂さ晴らししてもしょうがない。しょうがないのにそれでもやる人は、感情のコントロールが下手くそ過ぎるから、そもそも感情労働には向いてない。

 

そもそも感情労働に向いてない人と接してストレスを感じるくらいなら、紋切り型の会話しかできない人工知能の方が、はるかにストレスフリー。

 

はい、よろこんでと言えない感情をことばや態度に込め、ささやかな憂さ晴らしの応酬として嗜み張り合いとしてきたような人にとっての安住の地なんて、いったいどこにあるのか知らんけどさ。

 

今は紋切り型の会話しかできない廉価な普及版でも、そのうちにもう少しマシになるかもね。というほのかな期待を込めて、さてどう問いかけようかと考える。