クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

仮面舞踏会

昔見たショートフィルム。とある装置を体内に埋め込むと、同じ装置を埋め込んだもの同士の間では、本当は他人からこう見られたかった美男美女になれるという設定だった。

 

本当の自分は一ミリグラムも変わってない、電脳的な仮面を被るようなもの。

 

ただし効果が持続するには制限時間があり、制限時間を過ぎると魔法が解けるように本当の自分の姿が露わになる。だからデート中であっても、制限時間をオーバーしそうになるとシンデレラのように急いでその場を離れなければならず、不便。そして不便を感じた人たちが、制限時間のないシステムへと勝手な改変をし始める。

 

制限時間がなくなれば、本当の自分は一ミリグラムも変わってないのにも関わらず、こうなりたかったという仮想の仮面を被ったままの気分でいられ、人格さえ自信たっぷりに生まれ変わる。その反動は大きくて、生身の人間の体を苛むという設定だった気がするけど、そこはうろ覚え。

 

積極的に仮想と現実を、混同させながら生きる道を選ぶ。こうなりたかったという、仮想の人格に憧れる人はどんな人達かということも同時に描いていて、仮想空間と現実がつながる世界を先取りしていた。

 

仮想しなくても、そのままで充分じゃんと思うような人までのめり込む例外もあったんだけどさ。

 

Vtuberと聞くと、つい昔見たショートフィルムを思い出す。

 

ありのままの自分を見て見てと積極的にアピールする人の承認欲求と、ありのままではない、こうありたかったという仮想キャラを被った自分を積極的にアピールする人の承認欲求と。底無しなのは一体どっち。

 

何かが欠落した人が嵌る底無し沼が、次から次へと現れる仮想と現実が混同した世界は、依存がお金に変わることに気付いた人が作ったディストピアっぽい。嵌る人が増えるほどに、吐き出す小判が増える打ち出の小槌から、小判の出が悪くなったらまた別の打ち出の小槌を作るよう。

 

生身の人間は、なんたって生身の人間だから、どうしたって体力・気力の限界がある。

 

有限は無限を包摂できないから、生身の人間の気力・体力をゴリゴリ削りにくる、無限を相手にした勝負なんて、相手にしないのがいちばん。

 

本当はこうありたかった仮想の人格、仮面を被り続けるにはお金がかかる課金制にすると、割と簡単に横道に逸れる人が増えるから、ディストピアは加速していく。ディストピアを加速させたがる人が、明るい未来の側に立ってる可能性はゼロに、明日のおやつをかけてもいいくらい。