クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

文学者が考えた、お金についての異色の本『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』読んだ

お金お金、お金お金、お金お金~♪という某マネー番組のテーマソングが、至極しっくりくる仮想通貨バブルが盛り上がってはじけそうな今日この頃。

 

現金や金塊のように、実体のあるリアルマネーとはまた違う。紙幣や硬貨といった実体もなければ信用の裏付けも脆弱な、法定通貨とは別種の通貨が回す世界の存在が、大衆に知られるようになったのはきっと仮想通貨バブルのよい一面。

 

投機的色彩を帯びると、口座数が爆速で増えるという事象を目の当たりにして、貯蓄から投資運動を地味に地道にやってた人は、がっくり来たんじゃないすかね。

新しい通貨という社会実験の例は、過去にもあり

ところで法定通貨とは別の通貨や貨幣システムは、過去にもなかったわけじゃない。

 

エンデの遺言 根源からお金を問うこと』*1という古い本には、ブレクテアーテ、ゲゼルの自由貨幣にイサカアワーやヴィア銀行、テラ通貨にLETSといった、すでに消え去ったか細々と今に続く、法定通貨とは別種の地域通貨や貨幣システムが続々と登場する。

 

エンデといえば、『モモ』に『はてしない物語』で知られる児童文学作家。

 

彼が残した、お金についての疑問という一本のテープをもとにテレビ番組が作られ、1999年5月に放送されたそのテレビ番組を制作したスタッフによって書かれたのが、『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』という本。

 

だから、エンデが直接書いたわけではない。まどろっこしい。ついでに共著者とも言える“現代グループ”についての記述はなし。誰?エンデの発言をベースに、既存の経済学者の説く経済政策には懐疑的な立場から書かれてる。

 

文学や芸術を嗜む余裕を社会に残す、お金の仕組み

書かれたのは、ヘッジファンドデリバティブによるマネーの暴力が、アジアの新興国を襲ったあと。

 

パンやお米を買うのに必要な「生活のお金」が、生きるために労働を必要としない「投機のお金」と一緒にされ、脆弱な個人の生活が脅かされことに対する憤りが込められている。

非良心的な行動が褒美を受け、良心的に仕事をすると経済的に破滅するのがいまのシステムです。

(『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』本文より引用)

 とのエンデの発言を引用してるくらいだから、憤ってることは間違いなし。

 

非倫理的な行動が富を生むのなら、世の中から倫理は消える。非倫理的な行動を前にすると、黙ってられないのが、文学を生業とするもの。と、考えるとエンデがお金、ひいては暴力的なまでに猛威を振るう札束の暴力について、深く考察するのもちっとも不思議じゃない。

 

時間の経過とともに価値が減ずる腐るお金を推奨

エンデが晩年に傾倒した思想家シルビオ・ゲゼルは、時間の経過とともにお金の価値が減じていく、腐る(=減価する)お金を推奨する人。

 

減価するお金や利子がつかないお金を実体経済に持ち込めば、腐らないお金がぶっとい札束に化けて脆弱な個人の生存を脅かす、“マネーの暴力”に対抗し得ると説いていた。

 

国家は経済や思想に介入すべきではないとの立場は、共産主義とはまた別モノで、資本主義の搾取もイヤ、官僚主義もイヤ、共産主義もイヤと受け入れ難いものを消去していったら、最終的に残った仕組みっぽくもある。

 

資本主義の搾取に甘んじ、官僚主義共産主義で思想や経済に対する介入に甘んじてたら、自由な創作に打ち込める、時間も心の余裕も生まれやしない。という文学者ならではの発想が、根底にあるような気がしてしょうがない。

 

いいものが、不偏的なものとして必ずしも後世に残らなかった。その反省に立ってか、時間も心の余裕も失わずにすむ仕組みって何だと考えて、たどり着いたのが地域通貨

 

自分たちでコントロール可能な世界で、極端な富者も貧者も生み出さないシステムとして、地域通貨をクローズアップしてる。

 

この本が出た2000年代初頭以後、地域通貨ブームともいえるムーブメントがちょこっと盛り上がりを見せたけれど、今にして思えば極端な富者と貧者を生み出す金融バブルに飽いたからこその、地域通貨ブームだったのか。極端な経済格差は人間関係まで破壊してしまうから、『詩羽のいる街』で描かれたような“地域通貨が回す優しい世界“への憧れが募ったのかも。

 

文学者だから、経済や金融の問題にもクリエイティブに答えを出す

本流とはいえない経済学者や経済システムを多く取り上げているのは、現行のシステムでは解決できないという問題意識に貫かれているからと考えれば、しっくりくる。

 

ビットコインに代表される仮想通貨も、もともとは現行のシステムに満足していないから生まれたわけで。お金を使う人の属性や動機が多様化するのなら、使用者の多様性に合わせて貨幣システムも多様になる方が自然っちゃ自然。だから実験的な貨幣システムは、今後もきっと生まれ続ける。

 

この本で問題提起された、「こうだったらいいのに」という幾つかのものは、2018年現在ではすでに現実のもの。

 

腐るお金はマイナス金利として、パンやお米を買う生活に使うお金と投機のお金を分別する仕組みとして、NISAやiDeCoに。小額から積立可能な投資信託も、生活防衛のためと考えれば、これもやっぱり生活のお金と投機のお金を分別する仕組みに含まれるかも。

 

友愛を理念とした経済システムとして、クラウドファンディングやフレンドファンディング。という風に、「こうだったらいいのに」というクリエイティビティを発揮させたら、現行の不足を補うものができている。

 

減価するお金を提唱したゲゼルは、輸入業者として国際為替相場の乱高下に悩まされた経験持ちで、国際為替相場の乱高下が仮想通貨の生まれる土壌となった可能性さえ薄っすら想定する程度には、妄想が広がった。

 

今後増えていきそうなのは、株式会社が会社から降りて、財団や基金といった公益性に勝る組織への生まれ変わりか。

 

非倫理的な経済システムにダメ出ししたら、次に待っているのは公益に配慮した経済システムで、仮想通貨バブルで個人が踊っているあいだにも、社会的責任を自覚する企業はESGに取り組んでいる。

 

灰色の男たちに対する斬新な解釈

この本のなかでもっとも興味深いのは、『モモ』に出てくる灰色の男たちを斬新に解釈した箇所。

 

モモでは灰色の男たちは「時間どろぼう」とされているけれど、経済学者オイケンは彼らを金利生活者とみなし、生活のために働く必要のない者が死ぬのは金利生活が出来なくなった時と解釈している。金利生活者の生活が行き詰まる背景には、減価するお金のアイディアがあり、その解釈にエンデも同意している。

 

解釈が斬新で面白いけど、高齢化してゆき労働力が減りゆく国は、金融立国となってお金でお金を稼いでもらいたい事情もある。投機とはまた違う、投資によるお金がお金を稼ぐという金利生活くらいは許容範囲にしときたい。

 

グローバルマネーは絶対的貧困の解消に向かうから、相対的貧困を解消するのは、地域に閉じたお金の方。とはいえ地域とひとくくりにしても、地域を構成するメンバーが多様だったらひとつにはなれない。法定通貨を補完する補完通貨としての地域通貨は、企業城下町のように多様性に欠ける世界の方が、流通しやすそう。

 

地域通貨が新しい概念だった、この本が出たばかりの頃と今とは事情が異なり、お金の話として参考になる部分もあるけど、ならない部分も多々ある。スマホはローカルとグローバルをワンタップで繋ぐから、もはや地域に閉じる方が難しい。緊急避難的に流通したオルタナティブ通貨は、二つのうちひとつの道が示されたらその役割を終える。

 

イーサリアムモナーコインにリップルに。あぁそんなのもあったわねぇと、いつかはすべてが思い出になる。

 

ローカルとグローバルがワンタップで繋がるこれからのお話は、今どきのベストセラーに学ぶ方が学び甲斐もある。古い本を手に取ったのは単なる趣味だけれど、歴史的経緯を知ったことと今につながるアイディアの源泉に触れたようで面白かった。

 

よくも悪くも現行のシステムに満足できない文学者が、普遍的なものを残すための自由な時間や発想が許される仕組みについて考えたもの。自由な時間も発想も、灰色の男たちに奪われてもヘーキだったら用はない。

 

ま、こっち来いや、あるいはこっち来んなでぶん殴って、輪の中に引きずり込んだり放り出したりするのは、友愛からはもっとも遠いことは間違いないやね。

*1:読んだのは、NHK出版版。同タイトルの講談社+α版は読んでない。ほんとはとんぼの本から出てる『ミヒャエル・エンデが教えてくれたこと』を読んでからの方が、エンデの真意を捉えやすいのかも