クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

今見ても愉快

誰かを愉快にするのは難しくて、だから愉快にした人が多数になると、誰かを愉快にした何かの賞味期限も伸びるのかも。

 

地下鉄の駅で野蛮人に愛を叫んだ女性の告白を、伝言ゲームでその場に居合わせた人たちが地下鉄に乗り込もうとしていた男性(=野蛮人)に届けるシーンがとにかくハッピーで印象的な『クロコダイル・ダンディー』。

 

天才と呼ばれたサーファーガールがビッグウェーブを乗りこなせずに海中に叩きつけられ、再起不能と思われながらも事故から見事に復活を遂げる『ブルークラッシュ』。

 

どちらも今となっては古びたけれど、どちらも見終わったあとはやっぱり愉快爽快で明るく楽しい気分になれるのはきっと、“ニューカマーに対するエール”がたっぷりだから。

 

クロコダイル・ダンディー』の主人公はオーストラリアの奥地から。『ブルークラッシュ』の主人公はハワイと、どちらも自然豊かな土地からNYやプロへの登竜門といったより大きな世界への入り口に立つ。

 

オーストラリアの奥地という“酒場の女主人”ぐらいしか女っ気のない場所から主人公のダンディーをNYへ引っ張りだすのは、NYから来た教養豊かなお嬢様。

 

ロコ以外立ち入り禁止のビーチで、ロコの構ってほしがりサーファーボーイからイヤガラセ(というより、振り向いてほしいがためのちょっかい)を受けながら、小さな世界でサーフィン漬けになっていた主人公のサーファーガールをより大きな世界、プロスポーツへと導くのは、別のエリートプロスポーツ選手。

 

二人ともナビゲーターとともに大きな世界の入り口、というよりはとば口に立つけれど、とば口だから何しろ居心地はよくない。

 

オーストラリアの奥地出身のワイルドガイが、その機知やユーモアあるいは勇敢さでニューヨーカーから喝采を浴びる場面が最上なら、その真逆でワイルドガイゆえに不愉快な目にも遭う。

 

サーファーガールが、高級ホテルに泊まる旅行者では近寄ることもできない美しいビーチで、やっぱり自然からの贈り物であるビッグウェーブを自在に乗りこなす場面が最上なら、ロコゆえに観光客から不愉快な目に遭わされる。

 

最上と最悪。そのどちらも織り込みながら、それでも総体として快を感じるように出来上がっているのなら、そもそもの目線が高い。

 

大きな世界に飛び込んだ時に遭遇する不愉快な出来事の数々を描きながら、それでも大きな世界においでよと誘うのは不愉快な目に遭わすような人ではなく、だから悪習や悪行に“染まっていない“ニューカマーを歓迎する。

 

現在地点から見ると、ところどころが古くてちょっとアレ。であったとしても時の試練に耐えて名作と呼ばれるようになった作品は、出演者や製作者、関係者みなが関わったことを生涯誇りに思うような構造になっているはず。

 

景気がいい時、そのすぐ足元では治安が悪くなる。

 

NYとオーストラリアにハワイと舞台は違ってもその構造は一緒で、関係者みなが関わったことを生涯誇りに思うような名作は、舞台となる土地の関係者が丸ごと関わっていないと生まれて来ず、名作の舞台となった場所は見違えるようにきれいになっているはず。

 

きれいになるのがすぐとは限らないにしても。

 

だから、例えば誇りに思えない役割には最初から“長生きしそうもない人”をキャスティングといった腹黒さや意地の悪さが垣間見えたらその時点でもうダメで、時の試練に耐えるより前に世評が許さない。

 

ある土地から手厚く庇護を受けた者が、土地の祝福を丸ごと背負って現れた時、時の試練に耐え得る名作が生まれてくる。『ノッティングヒルの恋人』や『プリティ・ウーマン』も、そういう構造になってるような気がする。

 

そして、プロスポーツのキャンプ地やエキゾチックな写真や映像といった、現在のスポンサーが落としてくれる金銭的メリットは捨てがたいけれど弊害が大き過ぎるからスポンサーをチェンジしたい。幸い次のスポンサー候補が待機中という時は、遠慮なく旧弊や旧悪が明らかになるのかも。かもかも。