クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

出口のない世界を生きる『ヤクザと憲法』見てきた

DVD化の予定なし上映期間も限定的と、完全に限定ライブを見に行くような好奇心で見に行った。ヤクザとも暴力とも無縁な一般市民が見た感想は「これ、出口のない生き方や」だった。

 

暴力団対策法、暴力団排除条例が布かれ、ヤクザは全国で6万人を割った。この3年で2万人が組織を離脱した。しかし数字だけでは実態はわからない。ヤクザは、今、何を考え、どんな暮らしをしているのか?大阪の指定暴力団「二代目東組二代目清勇会」にキャメラが入る

 注:抗争は身近に迫る危機ではない、抗争によるとばっちりで過去に身内や自身が害されたこともない人が書いてます。

描かれなかったものはナニ?

東海テレビ制作のドキュメンタリー映画。「謝礼なし、収録テープは事前に見せない、顔へのモザイクは原則なし」の条件で、暴力団事務所とその構成員に密着する。ドキュメンタリーとはいえそこには製作者の意図や主観が入るから、「何が描かれなかったのか」により注意を払って見てた。

 

・描かれるのは、弱体化したオールドヤクザの姿

・描かれないのは、ヤクザが暴力団となりブイブイいわしてた頃のヤクザの姿

 

題材となっているのは、大阪の組織。なぜこの組織が選ばれたのかがまず興味深い。顔出しOKのテレビ局取材は、アンダーグラウンドな人にとってはリスクが高い。それでも彼らが取材に応じているのは、ひとつには彼らが過去に起こした抗争が元で、暴対法が制定されることになったから。同業者全体への締め付けがきつくなったのだから、彼らが顔出しに応じるのは「けじめ」や「みそぎ」の意味もあるのかもしれない。

 

新手の反社組織、例えば振り込め詐欺などの特殊詐欺をやってるところに比べれば、オールドヤクザな皆さんからは、生活臭が濃厚に漂う。事務所にもそこに詰めてる人たちからも、金回りの良さや羽振りの良さは微塵も感じられない。かなーり質素。

 

極道の妻たち』で見るような、高そうな割に意味のわからない美術品が並ぶゴージャス空間どこ???って感じ(虎のはく製はあったけどね)。

 

この状態は「健全」なのか?

暴対法が社会にあまねく浸透した成果が、そこには映し出されてた。今の生き方を捨てない限り、彼らはただ衰退していくだけ。組織から足を洗うか、あるいは新興の反社組織にでも移るか。反社組織のメンバーというレッテルを背負って生き続ける限り、社会から排除され続ける姿が描かれる。

 

小説・ドラマ・映画と、ヤクザはフィクションの題材として数多く描かれてきた。ヤクザに対するステレオタイプな思い込みや先入観が覆される面も、あぁやっぱりと思う面も両方あった。

 

1980年代以降の暴力団による抗争が、新聞やテレビのニュースを連日騒がしていた頃を知っている。画面には映らない負の側面も見ている。弱体化し微罪であっても罪に問われる現在の彼らを気の毒には思うけれど、一方で因果応報という醒めた気持ちが湧いてくるのも事実。

 

現在の彼らはアンフェアな状況に置かれている。それは間違いないけれど、暴対法施行前は彼らによって法が私的解釈され、アンフェアな状況も生み出されていた。繁華街にズラッと違法駐車された、恐ろし気な外車たち。取り締まる人は誰も居ない、事実上の無法状態だった。一般市民の違法駐車は厳しく取り締まるのにさ。

 

ま、因果応報という個人的な感情論はちょっと脇に置いといて。反社組織は権力へのカウンター的側面もあるから、社会のバランスとして、今の状態は健全かどうかということを問うていた。

 

幼稚で未成熟

この構図をスケールダウンして考えてみる。

 

あるところに、乱暴狼藉を働く無法集団がおりました。あまりにも乱暴狼藉が過ぎるので、彼らを取り締まる法律を作り、彼らは無法集団だよとべったりとレッテルも貼ることにしました。レッテルを貼った後、彼らの乱暴狼藉を快く思っていなかった者は、安心して彼らを微罪であっても罪に問うようになり、仲間外れにしました。仲間外れが辛いという声も、彼らの姿も見て見ぬふりです。スケールダウンするとこんな感じ?

 

あらなんだかすごく幼稚。

 

罪として微妙な微罪をタテに社会からの退出を迫り、レッテルを貼ったものをここに居ない者、存在しない者として扱い、あるいは近寄っちゃダメと周囲にも促す。あいつ気に食わないでぶん殴る。そこには理性や理知は感じられず、感情優先の幼稚な社会の姿が見えてくる。仕組みも運用する人も幼稚だと、幼稚な状態が加速する。

 

デフレのおかげもあって消費社会は成熟したけれど、消費以外の部分ではまだまだ未成熟で、高齢化あるいは更年期に入って退化してるのかしら???とも思ったり。年寄りの方が切れやすいとか言うからさ。

 

受け取り方は色々だけど、成長が止まって成熟期に入ったはずの国の、未成熟なまま置き去りにされた部分を直視するような作品だった。

 

やけにカメラ慣れしてるような気がしたけれど、彼らは彼らで記録映画を記念に撮ってたりするので、そのせいかもしれない。

 

どう考えても未来の無い道やレッテルを、どうして今さら選ぶのか。未来のない団体に、若くして加入した二十歳そこそこに見える男性が怖かった。社会的弱者の最後の受け皿がどこになるのかで、未来の形もずいぶん変わってくる。

 

世の中が成長を志向するのなら、社会的弱者の受け皿も広くなるのかしらと、好奇心が刺激された。

 

お休みなさーい。